平岡直子


どのレジに並ぼうかいいえ眠りに落ちるのは順番にではない

斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』(短歌研究社:2016年)


 

一首の形式はQ&Aである。なんらかの問いとなんらかの回答の組み合わせで歌ができている。だけど、その組み合わせが噛み合わない。〈どのレジに並ぼうか〉という問いに対して〈いいえ眠りに落ちるのは順番にではない〉はなにも答えになってないし、そもそも「どの」と聞いているのに「いいえ」は回答の前提から変だ。読んでいる途中でページがめくられてしまうように、歌の途中でべつの話がはじまる。
韻律の上でも、内容の断絶にすこし先駆けて一首は途中でめくれる。この歌はひとまず「どのレジに」の五音を初句として取り、次は「並ぼうかいいえ」の八音を字余りの二句目として取るのが自然だろう。そうすると三句目以下はがたがたになる。もっとも、九音・九音の組み合わせで一般的な下句に似たリフレインが起きていることや、その内訳が四音・五音:五音・四音という対称性を持っていることからは、まったくでたらめな韻律ではなく定型との会話があるのを感じさせはするけれど、それでもつっかえるような読みかたにはなってしまう。しかし、この歌の韻律は一首の途中でべつの一首がはじまっていることに気づくと途端に見通しがよくなる。二句目の「並ぼうか」を初句にして数えると破調のない短歌定型(ただし最後がもちろん五音欠ける)が姿をあらわす。「並ぼうか」から数えはじめると冒頭の「どの」が消えることで回答が「いいえ」ではじまることがむしろ自然に感じられるくらいだ。
急にページをめくられるせいで、「並ぼうかいいえ」でひゅっと落ちる感じがする。Gがかかって胃の下がすっとするこの感じは、「眠り」と「死」の関係を連想させたりもする。だけどそこに大きな飛躍はないのがこの歌のポイントだ。歌の途中で底が抜けるけれど、それほど長く落下しないうちにおしりの下に次のクッションが差しだされる。早く列が進みそうなレジを選ぶことと、人がばらばらのタイミングで眠りに落ちること。二つのイメージは衝突するわけではなく、「なんとなく並んでるイメージ」や「なんとなく順番通りにいかない感じ」によってゆるやかにつながる。二つのイメージが補い合うというよりは、お互いに具体性を欠けさせ合いながら空中で支え合うような一首である。

 

掲出歌からは、第一歌集「渡辺のわたし」に収録されている次の歌を連想する。レジと自動改札のつくり自体の相似や、そこをくぐったあとに人がばらばらに散っていくところに注目している点が似ていると思う。

 

上半身が人魚のようなものたちが自動改札みぎにひだりに/斉藤斎藤

 

上半身が人間で下半身が魚なのが人魚だとすると、人魚を定義する上で重要なのは後半である。「上半身が人魚のようなもの」というのは「上半身が人間」と言っているのと同じで、それは「人間」と言っているのと同じだ。四音で済む部分をわざわざ無駄に人魚を経由して、わざわざ上句いっぱいに引き伸ばしているのは、改札をくぐる人の群れのなかに人魚が混ざっている可能性を示唆したいわけではないだろう。どうしてこれほどねじれた場所から一首をはじめなければならないのか。
第一歌集、そして第二歌集の途中までの斉藤斎藤の歌をわたしなりに雑に要約すると「生んでくれと頼んだ覚えはない」だ。どのような環境に生まれ、どのように育てられるかは、人にとって社会との最初の接点であり、原点、原風景になり得るけれど、斉藤の歌にはそのあたりに対してかなり否定的な感触がある。「親」という存在への屈託は主題としても比較的わかりやすくあらわれていることで、第一歌集には直接的にそういうテーマで書かれた連作があるし、第二歌集の問題作(のひとつ)である大阪池田小事件を題材にした連作「今だから、宅間守」についてわたしがいちばん印象的だったのは、いくらなんでも被害者の親に冷たい、という点だった。そういった現実の「親」だけでなく、比喩的な、あるいは短歌的な意味でも、たとえば斉藤は本歌取りの名手だと思うけれど、歌にとっての親であるはずの本歌のコケにされっぷりはいちいちひどい。仮に「生まれない権利」というものがあるとすれば、人は生まれながらそれを侵害されていることになる。掲出歌の含まれている連作「人体の不思議展」は、実際にあった展示会のルポ的な内容に新生児の輪切りという架空の展示をミックスするというちょっと安易なほどのモチーフを用いてまでそういったテーマに触れている。出生・出自についての根本的なネガティブさと、それでも生きはじめてしまっているかぎりは生きつづけることへ奇妙なほどに意欲的であるポジティブさが文体をもねじっていて、歌をいちいちねじれた場所からはじめさせるのではないか。健やかに生まれ育って思春期あたりでねじれる人は歌も四句目あたりとかでねじるんじゃないかな。そのあたりを考えると、上に挙げた人魚の歌で人間たちの「下半身」が隠されていることや、歌集を通読すると意外とそれなりに多い性的な歌においてセックスがあくまで言語の延長線上に置かれており、生殖のニュアンスは取り除かれていることなども読みたくなるけれど、それはさておき。「生んでくれと頼んだ覚えはない」は、潜在的に文体を形成しているものであると同時に、顕在的なテーマでもあったのではないかと思う。途中までは。
第二歌集の後半は二つの大きな「死」に割かれている。震災による「たくさんの死」と、笹井宏之という「身近な死」である。それらの出来事によって「私の生まれない権利」への問いは「あなたの生きる権利」への問いに反転し、ルートが曲がったと思う。この歌集は途中でめくれて、ちがう歌集がはじまる。第二歌集の後半で歌人・斉藤斎藤は歌人・斉藤斎藤に「こんな風に生んでくれと頼んだ覚えはない」と文句を言うのではないかとすら想像してしまう。そして、けっきょくその台詞がこの歌人をいちばん生かすのではないか、とも。