染野太朗


夢見ずにねむり足りたるわれの身は檸檬をしぼるちから出だせり

横山未来子『午後の蝶』(ふらんす堂、2015年)

 


 

『午後の蝶』は、2014年の一年間、横山未来子がふらんす堂のホームページに一日一首ずつ連載した歌をまとめたもの。「短歌日記シリーズ」の一冊。一頁ごとに日付と、短文(ない日もある)と、短歌が記される。短文は、詞書のようでもあり、ひと言日記のようなときもあれば、聖書の一節や短歌や俳句が引用される場合もある。この短文が、短歌の示す情や景を、そのつどゆたかに支えている。

 

今日の一首は1月3日の歌。「この季節の、引き締まった空気が好きだ。」と短文が付されている。この短文によって「檸檬」のいかにもすがすがしいイメージが増幅するように思う。「檸檬をしぼるときのような力」とも読めなくはないけれど、ここでは、起床後の朝食のための場面で、檸檬を実際にしぼったととらえるのがよいと思う。充実した睡眠のイメージが、「われの身」というふうに、身体の充実として明確に輪郭を与えられ、その身をもって檸檬をしぼる。力の充実が示され、いかにも檸檬がみずみずしい。檸檬のしぶきが見えるようだ。強い酸味さえ伝わってくる。上の句の、リズムのよい、しかしマ行の音をアクセントとして粘つかせながら刻まれた音のつらなりが印象的。その音の感じが、眠りの質や身体の充実を背後から補強している、といった鑑賞もできなくはない。

 

1月18日は「部屋を整頓していたら、古い写真がたくさん出てきた。中学生の頃まで飼っていた犬、わが家に出入りしていた猫たち。私も家族も、みんな若い。」という短文とともに、

 

マラソンの小学生の息の音ひと群れすぎてまた冷ゆる道

 

という歌が置かれている。歌が示している視野の範囲はごくわずかに限られているけれど、マラソンのコースとして長い道も見えてくる。小学生の息のはずむ感じ、1月の息の白い感じ、小学生の体温。走る足音も聞こえる。そういったものが、「小学生」の描写を離れて、「道」の質感へと転換される。1月の寒い道が小学生の集団によってあたためられ、また冷えていく。空間が描かれ、時間が描かれる。小学生がとおるのは一瞬のことだけれど、一首が体感として伝えてくる時間はとても長い。「マラソン」や1月の「道」の表現として巧みだが、そこにさらに、短文が示す、家族の時間がおのずと重なる。小学生の集団のように過ぎ去った、犬や猫とともにある家族の時間。「部屋を整頓」ということや「古い写真」というのもまた活きてくる。

 

『午後の蝶』に限らず、横山の歌は、眼差しの滞空時間がとても長いと思う。対象を見つめる丁寧な眼差し、と言えばありふれているけれど、とにかく「長さ」を感じる。それが、時間の長さだけでなく、描かれた空間の幅、厚みをも増す。空間(あるいはひとつひとつのモノやコト)と時間がお互いに刺激しあって、歌の余情を複雑にする。その、時間と空間の関係を、横山の歌はほんとうにはっきりと見せてくれると思う。

 

そのごくわかりやすい例になるが、6月21日は「夏至。今年もそろそろ半分が過ぎようとしている。」という短文のあとで、

 

ゆるやかに西日の充つる公園に立葵ひとの影のごとあり

 

と詠まれる。一年でいちばん昼の長い日。その日の西日。この西日はきっと強いけれど、日が長いから、あくまでも「ゆるやか」に充ちていく。大きな「公園」がゆるやかな時間で充ちる。まず見えてくるのは「西日」の光と、時間のその質感だけ。さらに注目したいのは、短文にあえて記されてある「今年もそろそろ半分が……」というところ。「公園」という空間が年単位でとらえられる、というと変な言い方だけれども、そこに充ちる時間のふくらみが大きくなるように感じる。そういったあたりが、この「公園」を概念・観念の側にぐっと押しやって、現実からちょっとはみ出た、大きな空間に見せると思う。そこに現れる「立葵」は、喩ではあるけれど、もう「ひとの影」であって、大きな時間と大きな空間のなかで、ぽつんと(もちろん一本だけということはないと思うけれども、ひとところに)立っている。さびしさはないけれど、個(孤)ということを思う。あるいはそれを、「ひと」としてとらえるところに、主体の眼差しが色濃く反映されている、とも読めるかもしれない。

 

11月16日には「空気はつめたいけれど、日向はあたたかい。」とあって、

 

椎の木に隠れてゐたる太陽のにじみ出だせるまでの一分(いつぷん)

※( )内はルビ

 

という歌がある。おもしろい「一分」だなあと感じる。長いとも短いともつかない。いや、「空気がつめたい」のだから、太陽の光が感じられるようになるまでの一分というのは長く感じられるのかもしれないけれど、そこにはやはり「待つ」「観察する」ということの充実の時間が流れていて、それを単に「寒いから長いと感じる」とは言えないと思う。「長い」一分が、丁寧に描写され、つまり、主体の眼差しによって慈しまれることで、名残惜しいような一分、つまり「短い」一分をも含んでしまう。

 

最後にやはり11月22日の短文と歌を引きます。

 

11/22
今、とても眠い。
みづからの身体にからだ沈むごとき眠気のなかに歌を書きゐつ/横山未来子『午後の蝶』