いかなるものをも置かぬ斎壇となりたり暮るる野の地平線

真鍋美恵子『羊歯は萌えゐん』(新星書房:1970年)


 

一首鑑賞のページでそんなことを言っても、という感じなのだけど、真鍋美恵子は連作で読んだほうがおもしろい歌人だと思う。そしてそれは一般的な「連作で読んだほうがおもしろい歌人」の連作において、物語性、あるいは作品から垣間見える作者の情報などを拾い集めることによって行間を埋めていき、点を線にして横軸の流れを楽しむという感覚とは異なる。むしろ、そういった横軸の流れとは無縁なままで、点と点の位置関係を読むのがおもしろい。たとえば掲出歌の引用元である第六歌集の『羊歯は萌えゐん』に「夜」という素っ気ないタイトルの六首連作がある。この連作のハイライトは、終盤の四、五首目にあたる、

 

停止せるエスカレーターの階段が鉄のにほひとなる夜を恐る
エスカレーターの階段がなまなましき鋼鉄の歯となりてゐる深夜を見たり

 

この二首である。みればわかるとおり、この二首は「夜」の「エスカレーターの階段」に「鉄」の要素を感じるという、いわば同じ原材料でできている。それぞれいい歌だと思うけれど、二首のあいだに連絡はない。二首が助けあったり補い合ったりするわけではなく、歌のあいだに時間の経過や因果関係は感じられず、独立した歌として並べられている。ただ、二首を並べられたとき、一首目でさらっとなぞられている感覚に、二首目ではぐいっと深く踏み込んでいることを読者は感じるだろう。その踏み込みに足元がぐらっとする感覚が、真鍋の連作を読むときのおもしろさなのだと思う。そしてその踏み込みは、それぞれの歌のなかで「鉄の匂い」や「鋼鉄の歯」をつかみにいくときの踏み込みと同じものだ。真鍋の作品は、一首の歌を読むように連作を読めるようになっている。
短歌の世界ではもうすこし蓄積が信じられているものだと思う。多くの歌人にとって短歌とは出世魚のようなもので、サイズが変わると性質が変わる。どの一首でも言い得ていないことが連作の上にはあらわれるはずだし、連作の集合以上の意味が一冊の歌集にはあるはずだし、歌集出版を重ねて七冊集めればどんな願いでも叶えられるはずである。そういった蓄積を志向しないのは諸刃の剣で、作者という連続性に甘えにいかないゆえの歌のシャープさが保たれつづける反面、この作者は何を詠わないのか、という消去法の側から彫りだされる作家像の輪郭はどうしても鈍くなる。すなわちそれが真鍋の歌の鋭い魅力でもあり、同時に評価が定まりきらない理由でもあるのではないかと思う。類想歌やモチーフの重複が多いのも、それでなにかを蓄積しようというのではなく、前の歌を忘れているからこそなのではないか。
近いか遠いか。真鍋の歌にはそれしかないといってもいい。この連作「夜」には、上に挙げた二首の直前に〈内臓の色せる花を売りてをり地下の道ここに岐れんとして〉という歌が、そしてもっと遡ると一首目には〈うつくしき夜となるべし果実油の瓶におびただしき指紋つきゐて〉という歌が置かれていて、この連作では夜という時間帯にある生きもののような身体性が見出されていることが読みとれる。しかし、連作を通してその身体性の全体像が獲得されるというよりは、あくまで断片的なままのその身体性に対する一首ごとの距離感の違いが読者を揺さぶる。「地下の道」というひとつの「内側」に「内臓の色」が置かれたあとに「エスカレーター」が「歯」になる。同じ光景を、ピントを合わせる位置を変えながら何枚も撮った写真が並んでいるようなところが凄みなのだと思う。

 

いかなるものをも置かぬ斎壇となりたり暮るる野の地平線

 

近さと遠さが魅力的なかたちで一首に内蔵されている例として掲出歌を挙げてみよう。地平線という地上でもっとも遠いものを斎壇という近いものの比喩でぐっとつかみ、つかんだその錯覚を離さないまま一首が終わる。斎壇というのはある種の神聖視のようでもありながら、「いかなるものをも置かぬ」斎壇に斎壇性はなく、それはただの台だともいえる。斎壇と地平線がそれぞれの性格を打ち消し合うことで簡略化され、ただ一本のシンプルな線になろうとするけれど、その線がシンプルになろうとすればするほど反動のように歌のうしろに大きな斎壇と小さな地平線がみえてくる。
一首のなかに地平線を引き直すような韻律の揺らぎも読みどころである。ぱっとみた印象は字余りの歌。上句の音数があふれているわりに「置かぬ」「なりたり」「暮るる」細部のすっぱりとした確信の齟齬がおもしろい。たぶん三句目あたりに大胆な欠落があって、破調が下句になだれこみながら最後にすっと形が整うのかな、という印象だった。ところが、よくよく数えると字足らずの歌である。初句に一音だけ字足らずがあり、それ以外に音数の上での破調はない。しかし、「いかなる/ものをも置かぬ」の句またがり、「なりたり暮るる」の句割れはそれぞれわりと苦しく、字余り的な読みかたも視界に入りつづけてしまう。韻律にも遠近感がある一首である。