寝たる手の届くところまで電灯の紐を垂らせば年は終りぬ

竹山広『遐年』(柊書房:2004年)


 

元旦にあたえられる「一年」というひとかたまりの日々が少しずつ使われてゆき、大晦日についに底をつく。もうすぐ新しいかたまりの補給がある、きっとあるはずだけど、手持ち分がいったんゼロになってからじゃないと補給されないことへの不安は大きい。これは一首の歌がだんだんと文字数を使い切っていく道のりに似ているだろうか。日めくりカレンダーの最後の一枚をちぎってしまうとどうなるのか。歌の最後の一音を読んでしまうとなにが起こるのか。そこにあらわれるものはほんとうに「壁」とか「紙の余白」とかなのだろうか、という疑いは、宇宙の端はどうなっているのか、と考えることに似ている。一年という単位の切れ目に断絶を見出すのはカレンダーという便宜上の考え方に則った見立てであって、大晦日がなにかの終わりだなどというのは錯覚だ、などという発想こそが錯覚だと思う。そのいかにも安全な錯覚を取り払ったときわたしたちがどんな崖っぷちに吹き寄せられているのかは、たとえばこういう歌によって可視化される。
掲出歌はまずは直感的に年の瀬の寒々しさをつたえてくる。この歌に描かれている生活には他人の気配がなく、また、自らの可動域を狭めるような作業からはどこか身体の不自由も連想させる。〈紐〉を引くところまで至らないあかるいままでの幕切れはむしろ異様さがつよく、目をみひらいたまま息絶える生き物を思わせるし、そもそもこの〈紐〉がなにか引いてはまずいような禍々しさを漂わせているのは、〈垂らせば〉の抜群のこわさによるだろうか。
そういった殺伐としたイメージの背骨は奇妙な遡行感にある。この歌は、一首の途中〈寝たる手の届くところまで電灯の紐を〉あたりまでは寝床に横たわっている人物を想像しながら読むけれど、〈垂らせば〉に至るとき、その人物がとつぜん起き上がる。電灯の紐の延長作業はおそらく立って行うものだからだ。初句の〈寝たる手〉とは今まさに寝ているわけではなく、作業中の人物が「寝るとだいたいこの辺が手だな」と考えているその想像のなかにしか存在しない手なのだということがここでやっと理解される。さいしょ歌の主人公だと思われた人物が、のちに立ちあがる真の主人公の想像のなかへ後景化する流れは、幽体離脱の逆っぽいというか、遡行をさらに逆再生しているような不思議な感覚がある。
紐を垂らした瞬間に、未来からの前借りで寝床に紐を引く手があらわれたかのような、まだ起きていないはずの暗転がこの歌の最後にはある。一年が、一首が強制終了する。想像に追いつくはずだった現実は達成されないまま、この歌の上で想像されつづける。
一年の終わりと一首の終わりがここまできれいに重なるのは、電灯の紐というモチーフ自体がどこか短歌に似ているという理由もあるだろう。その垂れ下がり方だけでなく、歌をつくることがその都度の光源と自分自身との距離や道筋を相対化することだとしたら、電灯の紐はそれをもっとも卑近に具現化するものかもしれない。