須佐之男命『古事記』
※日々のクオリアで、2012年5月5日に棚木恒寿さんが、2014年6月24日に一ノ関忠人さんが取り上げている。
読みは、「やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを」
「八雲立つ」は八重の雲が湧き起こる意で、出雲をたたえる枕詞。
「八重垣」は幾重にもめぐらされた立派な垣。
出雲に降(くだ)った須佐之男命(スサノオノミコト)が櫛名田比売(クシナダヒメ)を妻とする新婚のうた。妻を籠もらせるための八重垣をつくろうよ、という意味。
『古事記』の最初に出てくる歌でもあり、のちの『古今和歌集』の「仮名序」には、
このスサノオの歌から歌の三十一文字が定まったと書かれていて、
つまり、この歌が、いちおう、日本最古の短歌であり、三十一文字の歌の原型ということになっている。
有名な八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)の件(くだり)に出て来る。
姉の天照大御神(アマテラスオオミカミ)を怒らせ、天上界を追放された須佐之男命が出雲国の鳥髪(トリカミ)に降り立ち、最初に出会った人が、足名椎(アナヅチ)と手名椎(タナヅチ)という老夫婦と、その娘、櫛名田比売(クシナダヒメ)。三人は泣いていた。事情を聞くと、毎年この時期に八俣の大蛇が訪れ、娘を食べてしまう。もうすぐ、櫛名田比売も食べられてしまうというので泣いていた。そこで、スサノオはクシナダヒメをもらう約束を取り付け、ヤマタノオロチを退治する。そして、出雲に宮殿をつくったときに、
其地より雲立ち騰(のぼ)りき。ここに御歌を作(よ)みたまひき。その歌は、
ということで、この歌が登場する。
「八雲立つ」はふつう枕詞だけど、古事記では、須佐之男命が立ち上る雲を見てつくった歌だから「実景」なのだと書かれていたのを、
以前、どこかで読んでへえっと思った記憶がある。
スサノオが見てつくったから「実景」って、かなりラジカルじゃないか。
ともかく、この時点ではまだ枕詞が形骸化してはいなかった。
「八重垣」が三つ入っている。
これはどういう働きか。
八雲立つ―、とまず大きな雲の峰の立つ様子から、地名であるところの、出雲―、で視界を絞る。この、出雲八重垣―、は詰まった韻律、語意ともにぎっちりと締め上げるようでもあり、そして、妻籠みに―、は、そのままの意で、妻をこもらせるために、ということになるが、それを「つまごみに」とつづめて言われると、力がこもって凄味がある。
八重垣作る、その八重垣を―、の最後のリフレインはスサノオだけに凄まじい。
妻を籠らせるために、八重垣を作るのだ、その(=妻を籠らせるための)、八重垣を!!!!!
というように、繰り返される「八重垣」がその都度、「妻を籠らせるために」という目的を噛みしめていく。そして最後の「を」はほとんど雄叫びである。
全く恐ろしい。がんじがらめの妻籠みの歌である。
さて、
八重垣の歌は、国ぼめと同じで結婚とそれに伴う新築の建物をほめる一つの儀式的な型なんでしょう。それを物語にうまく組み込んでいる。
三つ入った「八重垣」は呪文みたいなものでしょう。
繰り返し言えば願いがかなうみたいな。※このあたりについては一ノ関忠人さんの「日々のクオリア」を参照されたい。
また、長歌がリフレインの詩だから、その断片なのかもしれない。
だから、この歌は本来スサノオの人格(神格?)とは無関係なはずなんだけど、
スサノオの人格(神格?)と、物語の場面と、この歌が一心同体となって、
ここに「実景」を作り出しているといえる。
棚木恒寿さんがクオリアで書いていた文章がとてもいいので紹介したい。
「古事記」という一つの物語の中の歌であるが、どこか人間モデルとしての速須佐之男命の発した言葉のように感じられる。(略)速須佐之男命の一つの主体としての感情が素直に出てきているように思われるのである。(略)正直なところ古典は苦手で、これは現代歌人によるわがままな読みなのかもかもしれない。その危惧を踏まえた上で、「古事記」の地の文と比較して、この作には感情のある主体としての速須佐之男命の素顔が見えているような感じがあることを指摘しておきたいと思う。「古事記」に出てくる最初の歌だが、そこにすでに、人間の顔が見えているようなのである。
(中略)
物語のなかの登場人物に、そっと人間らしい感情を吹き込んでゆくこと。そのような効果が歌にはあるような気がするのである。
それにしても、なぜ歌にはこのような効果があるのだろう。
棚木さんは、「古事記」の「地の文」と比較して、この歌に「感情のある主体」を見出しているが、同じように物語中に登場する「長歌」との比較でも同様の指摘が可能だと思う。
長歌が劇中のセリフのように、物語という土台の上に構成された一要素としてフィクション性を担保しているのに対し、
長歌が断片化され、五、七、五、七、七の定型を得ると、スサノオの声以外の何物でもないというほどに強固な主体が確かに浮かび上がる。
つまり、ここには、リアリティが発生している。
このリアリティが別の観点から考察されているのが、一ノ関さんが紹介している、藤井貞和の解析ではないか。
この解析によれば、「八雲立つ出雲八重垣」という神話の舞台に対し、
「妻籠みに八重垣作るその八重垣を」が、詠われる現在、「今、ここ」を提示することで、神話を「今」に連続させる。
つまり、物語に「今」を呼び込む装置として歌が機能しているのであり、そこに歌の呪術的役割、つまり呪術性がある、という見方になる。
(※私の要約が合っているか、自信がないので、原文を読んでいただきたい。)
なぜ、「妻籠みに八重垣作るその八重垣を」が、現在を呼び込むのか。
ひとつには、「その」というような指示語、「作る」という動詞が現場性を持ち込むからであるだろう。
そして、何よりも、これら「妻籠みに」という目的や、「その」という指示語、「作る」という動詞が、
主語を省いた物言いによって、主観的に機能することで、そこにいる一人の人物を想定させる。
主語を省く日本語の言外の一人称性が、定型によって主観の輪郭=そこにいる人物を得る。
つまり、定型が、「今、ここ」の磁場として、主語を持たない言語の求心力になっているのではないか。
殊にリフレインに注目するとそれはわかりやすい。
長歌であれば、リフレインが並列的な連なりとして、歌謡のリズムを取っているのに対し、
一本の短歌形式のなかでは、リフレインが一つの目的に向かって垂直に集中し、
「ひとつの意志」を形成する。この「意志」が「主体」のように見えてくるのだ。
そして私が思うのは、短歌一般によく言われるいわゆる「私性」というのは、
こうした、歌の形式が齎す「主体性のようなもの」が、「私性」と混同されてきたところがないだろうか、ということだ。
ここでの「主体性のようなもの」は、近代短歌が当初歌に持ち込もうとした文学的主体性や、
あるいは斉藤斎藤がよく言っている「私性」とは根本的に違うものなのではないかと私は思っていて、
そこの識別を丁寧に行うことが、今という時代においてとても大事なことのように思っている。
昨年の大晦日の晩、NHKの紅白歌合戦が終わって、画面が「ゆく年くる年」に切り替わったとき、
ふとんの上で正座して見ていた娘が突然、「ゆく年くる年だって!えらそうに!」と言った。
このつっこみは新しいと思った。