花山周子


橋本喜典
風の中に花ふるへをり同情にとどまるのみが常なるわれか

橋本喜典『聖木立』(2018年)


一首鑑賞ではあるが、この歌は以下の三首の並びのなかで読みたいものである。

 

・行きどころなく迷ひ来し烈風が枝垂(しだ)るる萩を狂はして去る
・風の中に花ふるへをり同情にとどまるのみが常なるわれか
・いまわれの荒るる心は八方に薙ぎ倒されし花野のごとし

 

これら三首の前には、「烈風に横倒しなるトラックの車体をたたき突き刺さる雨」という歌があることからも、相当に強い、風雨の中の光景であることが知れる。

 

・行きどころなく迷ひ来し烈風が枝垂(しだ)るる萩を狂はして去る

 

「行きどころなく迷ひ来し烈風」という感じは、広い視野に大きな木や電線が吹かれるのを見ていても起こらない。烈風が、庭の隅などに細やかに咲いている萩のような低木までもを狂わせているから、こういう印象を作者に齎したのである。

 

烈風が持て余す力が、行き迷い、こんなところの(自分の眼前)のこんな花(繊細な萩の枝垂れ)までも狂わせていった。
強いものと、か弱いもののその両者のあわれさのようなものが見つめられている。

 

・風の中に花ふるへをり同情にとどまるのみが常なるわれか

 

そして、今日の一首。
この二首目では、その烈風のなかでふるえる花を見ながら「同情にとどまるのみが常なるわれか」という自身への鋭いまなざしへと変じる。

 

「常なる」という言い方などから敷衍して、社会的弱者、被害者、あるいは被災者などへの「同情にとどまるのみが常なるわれか」という内省として読むこともできる。できるというより、歌の臨場感から一歩はなれて、歌の持つ意味内容に注目するのなら、そういう批評性こそ読むべきかもしれない。けれど、私はこうした「意味」、「自己批評」に落とし込む直前の、歌の臨場感のほうに圧倒されているのである。

 

まず、この歌の臨場感というのは、「ふるへをり」から、間髪置かずに「同情にとどまるのみが」と書き出される鋭さ、「われなりしか」というふうに言わない、あくまで現場の光景にとどまる「われか」という問いのあり方に感じるものであるだろう。

 

眼前の光景に対峙して、直感的に、というより寧ろ直情として「同情にとどまるのみが常なるわれか」という問いが脳裡に、そして眼前の景そのものに突き刺さる。

 

「ど、うじょ、うにとど、まるのみが、」という濁音が、「いま、ここ」にいる「われ」を刻印している。

 

ここには、眼前の「花のふるへ」が、自身に及ぼす思惟、という一対一の緊張関係がある。

 

・いまわれの荒るる心は八方に薙ぎ倒されし花野のごとし 44

 

二首目(今日の一首)に私が自己内省よりも、現場性のほうを強く感じるのは、さらに、三首目にこの歌が置かれるからである。

「いまわれの荒るる心」というのは、激しい烈風とそれにふるえる花を見たからではないか。「八方になぎ倒されし花野」は、自身の心ではなく、眼前の光景なのではないか。内と外が反転し、あるいは同居し、疲れ果てたように「薙ぎ倒された花野」が残る。
このような疲れが訪れたのは、嵐が過ぎ去ったからである。
だから私は、やはり今日の一首、

 

・風の中に花ふるへをり同情にとどまるのみが常なるわれか

 

に、激しい光景を眼前にしての精神の緊張状態が生み出した、「同情にとどまるのみが常なるわれか」という直情を読み取るのであり、私自身のうちにもまた、この三首を読み終えて体験的に嵐が過ぎ去ったことに驚いている。