前田透/わが愛するものに語らん樫の木に日が当り視よ、/冬すでに過ぐ

前田透『冬すでに過ぐ』(角川書店・1980年)
※表記は『前田透全歌集』(短歌新聞社・1984年)に拠る

 


 

『冬すでに過ぐ』は第五歌集。1974(昭和49)年秋から1979(昭和54)年末までの作品457首を収める。前田透の代表歌のひとつである。

 

掲出歌は1978(昭和53)年の作品で、「答唱詩篇」27首の最終首。「答唱詩篇」に限らず『冬すでに過ぐ』で特徴的なのが、ほとんどの歌で改行〔全歌集では/(スラッシュ)で表記)がなされており、しかもその多くが四句と結句の間で改行されていることである。これについて前田は「後記」で、「心のおもむくままに、などと言うのは実は大へんなことなのであろう。いくらかでもそうしたい気持もあって、例えば、この集の組方などは、やや気ままな改行法をとった、一行を切りたいところで切ったわけで、これによって内部リズムが生かされるならば、と考えたからでもある」と記している。

 

掲出歌に眼を向けると、一首が大きく4つのパートに分けられることにまず気づく。すなわち「わが愛するものに語らん」「樫の木に日が当り」「視よ、」「冬すでに過ぐ」の四つである。

 

「樫の木に日が当たり」は、掲出歌では唯一といっていい実景に基づく具体的な描写で、視界が展けるような感覚と明るさへの希求をダイレクトに感じることができる。

 

「視よ、」は命令形だが、命令口調というよりは読者と作者の双方に念押しというか言い聞かせるような声調で、物事の真理を見通した確信に満ちた力強さがある。

 

読点(、)の効果も見逃せない。読点は音楽でいう休符音符の効果があり、ここで一拍置くことで「視よ」の命令形がさらに力強さと余韻を増す。そして改行により明確にカットが切れ、画面が転換する。

 

「冬すでに過ぐ」は、気がついたら冬がもう終わっていたという大幅な時間の経過を現すと同時に、今まで暗かった視界がみるみる明るくなるような効果がある。ここであらためて改行した意味と効果を読者は実感しつつ、読みは倒置になっている初句二句の「わが愛するものに語らん」へと連環してゆく。言葉通り、冬が既に過ぎたことを愛するものに語ろうという意味となり、「わが愛するもの」は読者の想像に委ねられる。この想像が、一首に漂うまぶしく豊穣な時間をさらに豊かなものへとしてゆくのである。

 

前田透は1984(昭和59)年1月11日、専任教授を務める明星大学での講義の帰路、東京・南荻窪の路上で高校生のオートバイにはねられ、緊急搬送され手術を受けたが、その甲斐なく二日後の1月13日に逝去した。享年69。

 

今回前田透を取り上げたのは、ちょうど今年で没後35年となるからだが、前田透の作品からこの歌を取り上げた理由は、次回に譲る。