橋本喜典『聖木立』(2018年)
この歌は今年の角川「短歌年鑑」で染野太朗さんがあげていて、改めて印象に残ったものだ。
聴覚の不自由をむしろ個性的な感覚として言葉を引き寄せる。自在だ。一首目(筆者注:「チチチチと」の歌)、聞こえずに想像するだけの鳴き声、だからこそ小鳥への心寄せは深く、握っていないはずのその「温か」さが読者にもなまなまと伝わる。
染野太朗「作品点描1」角川「短歌年鑑」2019年版
と染野さんは書いていた。
年鑑の作品点描の鑑賞であるから、ごく短い文章だけれど、大事なことがみんな書かれている。「小鳥への心寄せは深く」という感じは、「この小鳥」という言い方にまずあらわれている。「この」には、実際の距離の近さと同時に、心寄せする親(ちかし)さがある。
それから、「握っていないはずのその「温か」さが読者にもなまなまと伝わる」のは、「温かならむ」というこの歌の推量のあり方によるのだと思う。それは、「聞こえずに想像するだけの鳴き声」からしてそうなのである。橋本喜典の『聖木立』を読みながら、私がなにより印象深かったのは、この推量という心の機微を通して描き出される、景物の実体感なのであった。
・並み立てる大き欅は三月の天に触れつつ芽吹けるならむ
・並み立てる大き欅は無数なる細枝の芽生え天に向けゐむ
欅の木をまっすぐに見上げながら、その見えない先端が想像されるとき、風景と心の高揚
が一体化するような、心が直接、風景に触れているような感じがする。
「ならむ」「ゐむ」という推量が、やわらかな触手となって風景に触れているのである。
同様に、チチチチの歌でも、「ならむ」という推量がやはり、小鳥を実際に握っているのである。
こういう推量はなかなか遣えるものではないと思う。
もう一つ、紹介したい歌がある。
・東京に稲妻見つつ一閃は越(こし)の田圃を脳裡に切りぬ
ふしぎな歌で、でもなにかこの感じ、伝わる。
越(こし)、は越の国のことであろう。
東京で稲妻を見ている。その稲妻の一閃が、脳裡で越の田圃を切った。
念のために言っておくけれど、橋本さんは東京生まれであるし、越の国の歌は歌集中この一首のみである。過去のどこかで、「越の田圃」の光景を見たことがあったのか、最近読んだもののなかに「越の田圃」が出てきたのか、それはわからない。わからないけれど、いずれにせよこの瞬間の「越の田圃」の出現は橋本さん自身、予期しないものだったはずである。
稲妻の一閃が瞬間的に脳裡に「越の田圃」のイメージを描き出した。
そして見逃してもおかしくないようなこの一瞬の映像を橋本さんは歌にとらえた。
ここには、前回ふれたような、眼前の光景との緊張関係がある。
橋本さんの推量が外界に触れることができるのは、これほどに研ぎ澄まされた感度によるのだと思う。