中野昭子魂のぬけしししむら焼き代は千円紙幣の三枚にて足る

中野昭子第一歌集『躓く家鴨』(1987年)


 

前回、文中で触れた北沢郁子の次の歌、

 

・花束を買ふよろこびに引きかえて渡す紙幣はわづかに二枚 『夢違』(1995年)

 

を読みながら、思い出す歌があった。
それが今日の一首、

 

・魂のぬけしししむら焼き代は千円紙幣の三枚にて足る

 

母が亡くなったときの一連中の歌である。

 

三千円と言わないのは、値段の問題ではないからだ。人が亡くなり燃やされる物質的な喪失感に対し、中野は、「千円紙幣の三枚」というものを感じ取った。

「第一歌集『躓く家鴨』によせて」『中野昭子歌集』(現代短歌文庫:砂子屋書房)

 

と、私は以前書いていたのであった。
しかし、この歌では、「千円紙幣の三枚」の前に、「焼き代」という「値段の問題」がまず提示される。火葬に際しての「焼き代」を詠った歌自体珍しいし、ここには生活者としての女性の実際的な着目があると思うし、その値段が「三千円」だということは、改めてショッキングでもある。

 

それなのに、なぜ、私は「値段の問題ではない」と思ったのか。
「千円紙幣の三枚」とわざわざ言ったのは、「三千円」の安さを強調しているとも考えられるのではないか。

 

今回、もう少し丁寧にこの歌を見てみて、気づいたのは、
「魂のぬけしししむら」という、初句、二句、が私にそう思わせたのではないか、ということだ。物質でしかなくなってしまった身体に対する、強烈な反応がここにはある。
そして、その後の「焼き代は」との間にはたぶん大きな断絶がある。
「魂のぬけしししむらの焼き代は」というように、「の」で気安く繋げられるようなものではない、もっと大きく省略された心理がここの狭間にはあると思うのだ。
「焼き代」という「金額の問題」にされることへの強い抵抗があるのだと思う。
この歌で、「魂のぬけしししむら」と同じ強度で置かれるのが、「千円紙幣の三枚」だ。
そして、だから、「三千円」という「金額」をわざわざ「物質」に還元したこの「千円紙幣の三枚」が「魂のぬけしししむら」と対置されることになる。
ついに物質的な無残さとして、死が感覚されているのである。

 

もちろん、「値段の問題」にされることへの抵抗も含め、この歌には「値段の問題」がやはり大事な要素にもなっている。
ただ、改めて北沢郁子の歌と比較するとき、

 

・花束を買ふよろこびに引きかえて渡す紙幣はわづかに二枚 北沢郁子

・魂のぬけしししむら焼き代は千円紙幣の三枚にて足る 中野昭子

 

こうして見ると、「紙幣」に対する感覚が、歌のつくりも含め、非常に近似していることに驚くのだ。

 

と、同時に、中野の歌では、それが人の死に直面した際の人の心理として、
普遍性を得ていることにも注目したい。中野昭子の歌というのは、ふだん、普遍性とはほど遠い独自の作家性を有しているからだ。そういう彼女の歌については別に紹介するつもりでいたのだけど、今回は、「紙幣」というモチーフに関連して書くこととなった。

 

最後に、『躓く家鴨』中の花の歌として印象的な歌も紹介しておこう。

 

・左より三つめのそれ 咲ききるをためらうごときそれを下さい

 

なお、『躓く家鴨』は絶版で今ではなかなか手に入らないけれど、
現代短歌文庫『中野昭子歌集』(砂子屋書房)に抄出されている。
今現在に至っても、私には、「こんな第一歌集は読んだことがない」と思える歌集である。