桜井京子おおミモザ、きのふの雪に耐へかねて街のはづれに身をもちくづす

桜井京子第二歌集『超高層の憂鬱』(2018年)


 

今日の一首は、次の若狭純子の歌といっしょに紹介したい。

 

・花舗にのみ花のあふるる東京と思い来しかど見よこのミモザ

若狭純子第一歌集『りんごをのせて』(2017年)

 

ミモザという木があることは、もちろん知っていて、それがだいたいどんなものかもわかっているのだけれど、実をいうと私はミモザの木というのを見たことがない。見たことはあっても、ミモザだと気づいてこなかった。そして、この二首を読んだとき、改めてそのことを不思議に思った。

 

若狭純子の歌では、花舗にあふれる花との対比において、祝福のようにミモザの花が発見される。「見よこのミモザ」という勢いづいた作者の声には、上句の「東京」というものに対する固定観念が爽快に裏切られた喜びが生きていて、雪崩れ咲くミモザのイメージさえ自然喚起させる。

 

・おおミモザ、きのふの雪に耐へかねて街のはづれに身をもちくづす

 

そして、今日の一首、桜井京子の歌。
ミモザの花の季節は2月下旬から4月ごろということであるから、これは花の咲く前の冬木、であるのか、それとも、春の雪が花の咲いた枝に降っているのかもしれない。いずれにせよ、ミモザの枝には雪が雪崩れ咲いている。

 

「おおミモザ」という呼びかけが印象的で、結句「身をもちくづす」まで一気に読ませる。と同時に、「きのふの雪に耐へかねて」以降の、「はづれ」「もちくづす」という濁音に、雪の重みがずりずりと下に向かって落ちてゆく感触が直に伝わってくる。

だから、最後の「づす」あたりで、実際、ずりっと、枝の先から雪が地面に落ちるような、雪の瑞々しさがある。

 

さて、この二首には、共通点が多く、この二人は同じミモザの木を詠っているのではないかとさえ思えるほどだ。殊に、結句と初句に置かれた「見よこのミモザ」、「おおミモザ」という呼びかけによって、ミモザという一人の女性、あるいは女神がここに出現するような気さえするところなど、歌の心そのものが共鳴している。

 

それだけではなく、この二人の歌集にも共通点が多い。
いずれも、キャリアウーマンとして、東京で生きている・生きてきた女性であり、女性として働くことで自らの女性性を強く意識せざるを得ない矜持や批評性、社会への眼差しが、きびきびとした物言いとともに、その歌の特徴を成してもいる。
また、『りんごをのせて』が一昨年、『超高層の憂鬱』が昨年の出版であったので、桜井さんの歌集を読みながらこのミモザの歌に出会ったときには、デジャブのような感覚さえ覚えたのだった。

なによりも、両者の小気味よい歌歌の中にあって、このミモザの木が一等鮮やかな印象を私の脳裏に残したことが大事な共通点のように思われる。