花山周子


工藤吉生
ボケというひどい名前の植物の背丈がオレとそう変わらない

工藤吉生「この人を追う」『短歌研究』2018年9月号


 

「ボケ」(木瓜)というのは、梅や桜、バラとも同じ「バラ科」であり、その「ボケ属」に属される。

 

私は子供の頃、妙にこの花に惹かれていた。
同じバラ科の花と比べてこの花が地味な印象を与えるのは、低木であることに加え、細く強張った枝に強張った小さな葉がたくさんついていて、そこに強張った小さな花が咲く、この木全体の風情にある。よほど手入れをされている木瓜は別として、その辺のボケというのは、どうも「美」に届きそうで届かない、もどかしさがある。それでも、その花はときに朱に「ぼかし」が入ったような本当に美しい色を見せる。私は勝手に「ぼけ」の名の由来はこの「ぼかし」たような色のことだと合点していた。今、調べてみると、果実が「爪」に似ていることから「木瓜(もけ)」と呼ばれていたものが「ぼけ」に転訛したようである。

 

さて、私はこの花の名の由来を日本画の技法「ぼかし」と思っていたわけだが、同時にそれは、「ぼけっとしている」とか、「このボケ!」とか「ぼけ老人」とかの「ぼけ」の語源だとも思っていた。つまり、私は、「木瓜」の名の由来に「呆け」を内心想定していたのである。そしてそのことに私は複雑な思いがあった。

 

本当を言えば、私の中で、木瓜の木と花は、「美しい」と完全には思わせてくれない、「ぼけ」っとした存在でもあったのだ。そのもどかしさが、ここがもう少しこうならもっと美しいのにというような妙な期待を私に持たせ、私は木瓜の花に惹きつけられていたのである。

 

どうして、私がこんなに木瓜の木とその名について語ってしまったかというと、
それは、今日の一首のせいである。

 

・ボケというひどい名前の植物の背丈がオレとそう変わらない

 

この歌ではその木瓜の木や、名の由来そのものには最初から頓着せず、「ボケ」という「言葉」を表面化する。それがどんな植物でも動物でもモノでも、「ボケ」という名であることにこの人は反応している。そして、そのような「ボケ」という名を持つモノが、「背丈がオレとそう変わらない」という、つまり、自分の存在を戯画化するために使われている。「ボケ」という名に、敢えてそのものズバリの子供じみた反応、寒いダジャレをするようなところにも、自嘲的な意味合いを汲んでいいだろう。

 

この歌には、完全に記号化=言葉化された世界の中で、自己を画一的に位置づける現代短歌の手法が端的に表れていると思う。そして、そういう歌の鑑賞において、そもそも木瓜の花がどんなものかを言い出すことは、無意味なだけでなく、この歌の在り方に対し極めて無頓着な行為に当たる。けれども、この歌に出会ったとき、私は個人的な木瓜への思いによって、この歌にショックを受けたのもまた、事実なのである。それは、私にとっては、強烈な読書体験となったのだ。そして私は、なぜ、この歌が私の個人的な木瓜への思いを、このように逆照射したのか、ということを考えてみたくなった。

 

「言葉」や「意味」に特化した歌自体は現代短歌では決してめずらしくはない。けれども、そうしたタイプの歌でも、モノのイメージは巧みに利用している。例えば、「桜」とか「金魚」とか「月」とか、その固有名詞を使うだけで、そのものの「イメージ」をも二重に差し出し、歌に「淡いピンク」や「赤」や「黄色」といった色彩を持ち込むことは狙わずともできる。けれども、この歌では「ボケ」という多少マイナーな木をわざわざ持ち出しながら、「ボケというひどい名前の植物の背丈がオレ」というふうに、その木の印象には一切構わず、「オレ」の背丈へと結びつける。ここには極端なほどに、「言葉」と、その「背丈」という自分を自嘲するための「意味」のみに反応する手つきがある。

 

つまり、「ボケというひどい名前の植物」という言い方には、モノをそのように表面的に扱うこと自体が目的化しているような印象があるのではないか。

 

と同時に、自分がそれを認識する側に立つことで、自嘲しつつも、自分がこの「ボケ」の存在よりも優位であることを手放さない人間の悲惨で残酷なプライドのようなものが顕示されている。「オレ」という主語の選択もこの作者の態度として象徴的であるだろう。つまり、ボケという存在が捨象されているだけではなく、そこに改めて、この人の手によって人間の序列のシステムが敷かれているのである。

 

「言葉」や「意味」に特化する手法において、工藤吉生のこの歌の徹底度の高さは群を抜いている。そしてそのために、「言葉」と「意味」の世界の「身も蓋もなさ」、「味気なさ」が露悪的に描き出される。意識的にせよ無意識的にせよ、ここにはモノの存在、イメージ自体に対する反逆や暴力性があり、そこに付随するはずの短歌的情感というものへの挑発的な態度が垣間見えるように思うのだ。そのような態度が私の個人的な思いを刺激したのではないか。

 

この、「反逆」「暴力性」「挑発的態度」については、次回、工藤吉生の他の歌も見ながらもう少し丁寧に見ていきたいと思う。