生沼義朗


斉藤斎藤/ラブホテルの角を曲がってT井くんにここのカレーを食べさせたかった

斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』(短歌研究社・2016年)


 

ラブホテルもカレー屋もロードサイドにあって車で移動しているとも読めるが、この歌が持っているテンポは歩いている速度を思わせる。道具立ても工夫されていて、「ラブホテル」と「カレー」の二つの名詞がバランスよく釣り合っている。

 

眼を惹くのはやはり「T井くん」である。名前を完全にイニシャルにするのではなく、名前の一部をイニシャルにするのはネットなどでよく見られる一種のスラングだが、短歌作品ではおそらく初めての使用例ではないか。

 

これについて島田幸典が、「短歌研究」二〇〇九年十月号の作品季評で、

 

わざわざ「T井」というのは、創作だとすると作為性が強く出る、何か意図、つまり実用性があるのかなと思って読んでいったんです。たとえば斉藤さんのことに関心のある今の若い読者たちであればという想定ですけれども、そうすると「T井」というのは筒井。笹井宏之さんですね。笹井宏之さんの本名は筒井さんですから。(略)
固有名詞に基づく解釈はこの一連(引用者註:掲出歌が入っている「季節はずれの冬のうた」)を特定の文脈に落とし込んでしまう作用があって、それはある種の深読みであったり誤りであったりするのかもしれないけれども、そういう読み方もあるのではないか

 

という言及をしている。また、この発言を受けて小池光は、

 

半分だけ漢字にして半分だけイニシャルにするというのは、半分だけ肉体のある人間で、半分はどこかまったく記号的な存在であるみたいな、それをこういう不思議な表記で書いている(略)「笹井くん」でどうしてだめなのか、「ラブホテルの角を曲がって笹井くんにここのカレーを食べさせたかった」と普通にやってなんで悪いのか(略)ちょっと恥ずかしいんだと思うんだ。斉藤さんの場合、そう書くのは恥ずかしい。

 

と述べている。名前の一部をイニシャルにすることは、一般的には伏せ字にしつつわかる人にはわかるようにほのめかす効果があるが、この歌の「T井くん」はそうした目的ではない。一方で小池の、半分は記号的な存在との指摘には頷けるが、それだけではないだろう。恥ずかしいからという理由もそれだけではない気がして、むしろ読みを特定の人物に固定させず、一首の読みしろを確保したい意思を感じる。

 

意味内容的にも、「T井くん」が誰であるかの特定はこの際あまり考えなくてよい。重要なのは、一首が「T井くん」を偲ぶこころで満たされていることであり、その意味でこれはれっきとした挽歌である。言うまでもなく、挽歌は中国で葬送の時に柩を挽くものが歌った歌が語源であり、死者に対する哀しみを詠い、同時に死者を悼むあるいは偲ぶ詩歌のことだ。

 

斉藤の『人の道、死ぬと町』は、自者他者を問わず〈生きる〉ことがテーマになっている歌集であるのは明確だが、挽歌も間違いなくテーマの表出のひとつの形である。そう考えると、下句のややぶっきらぼうな語り口がよりリアルな感情を読者に伝えていることが実感できる。挽歌は意識無意識や好む好まざるにかかわらず、作中主体の声を高らかにドラマチックに歌い上げてしまう性質がある。抑制がより深い哀しみと追慕の念を醸し出しているところに、掲出歌の価値がある。