花山周子


工藤吉生
公園の禁止事項の九つにすべて納得して歩き出す

工藤吉生「この人を追う」『短歌研究』2018年9月号


 

この歌について、短歌研究新人賞選考座談会で加藤治郎が以下のような発言をしていて印象に残った。

 

「納得して」が面白くて、あたかも自分が禁止事項を許可したような満足感、全能感がある。自身でルールを決めて支配したいという潜在的な欲求をこの作品に感じます。

 

確かに「すべて納得して」という言い方には「禁止事項」に対して妙に主体的というか、自分が改めてそこに許可を与えるような態度があると思う。そして、本来ならば「禁止事項」という個人には動かし難い、どこまでも自分が受け身であらざるを得ないものと付き合うための処世術のようなものがある。栗木京子が同じ座談会中で「躱し方」と言っているのもよくわかる。

さらに加藤は、

 

この作者には保守的な面があって、しきたりを受け入れたり、禁止事項を納得する。反発するのが一般的な心理と思うんですが、生きづらい、でたらめな世の中を受け入れながらなんとかやっていく。//一貫した人間性はあるんですね。一つは、我々がなんとかやっていくためにはルールをまずは受け入れようということ。もう一つは、この人は実はいろいろ自分で仕切りたい人じゃないかと思うんです。本来は自分がルールをつくる側でありたい。でも、「公園の禁止事項」の歌でも、「並盛」の歌でも、まずはルールやしきたりを受け入れるところからやっていこうと。

 

ここで加藤が指摘する「保守的な面」や「一貫した人間性」というものは、現代社会を考える上でもとても大事ではないかと思う。戦後の混乱期、そして高度成長期やバブル期を通過した現在、あらゆる場所に様々な制度やルールがもはや動かし難く敷かれ、さらに何か問題が発生するたびに、毛細血管のように、新たな決まりごとが追加されていく。そのような社会にあって、保守的にそれらの制度を肯うことに主体性を持つことが自尊心を保つ道でもあるのではないか。それはたとえば、時の政権の政策を自らが肯定し、理解し、時には許すという態度を通して、そこに一票を入れることで、全能感を得ることにも繋がるのだ。つまり、加藤がここで指摘する「人間性」というものは、現代社会のシステムに対するときの一つの「心理の型」なのではないか。

 

そして、そのような「心理の型」を短歌定型という制度に定着させているところに、作者工藤吉生の内在的なエネルギーがあるような気がする。「公園の禁止事項の九つ」のその内容は書かない。内容には触れずに「全て納得」という自分の態度を表明するということ。それを短歌定型にきちんとはめ込む。ここには、自分自身の心理の機微や、感情、思考に対する暴力的な単純化があるような気がするのだ。

 

こうした暴力性は自身の身体にも及んでいる気がする。

 

・頭を掻くつもりで上げた左手の先が帽子の中へ潜った
・考えず腕組みをして不機嫌に見えそうだなと思ってほどく
・手を腰にやってコーヒー牛乳を飲んではみても傷もつ心

 

これらの歌では、自身の身体を扱いながら、そこに、個人の身体性というものがない。ここにあるのは、平面的な図解としての身体だ。一首目では「かゆい」という体感には行かずに、その手が「帽子の中に潜った」という図解によって、滑稽味を出す。二首目では「腕組み」が「不機嫌」の「ポーズ」=「記号」として認識される。三首目では「手を腰にやってコーヒー牛乳を飲む」という「健康的」な「ポーズ」がなんら自身を反映しないことを言うわけだけど「傷もつ心」という、テンプレ的フレーズも「心」の単純化された「記号」でもあるだろう。ようするにここでは、外観と内観が記号的に対置されている。

 

・水を吐くオレを鏡に見てしまうモザイクかけておいてほしいな

 

さらにこの歌においては、「水を吐くオレ」に対し「モザイクをかける」という、平面的な処理を行う。「モザイクをかけておいてほしいな」であるから、実際にモザイクの処理を行ったという意味で言うのではなく、「かけておいてほしいな」という思考のあり方が既に平面的な処理であると思うのだ。もし、「モザイクをかけたい」であるのなら、ここには、自らの顔に思い悩むような心理や感情がストレートに表出されることになる。けれども「モザイクをかけておいてほしいな」にはそういう自己嫌悪そのものが抹消されて、単に見たくないものに対し、適切な処理を行っていただきたい、という他人事的な要望があるのだ。もちろん「見てしまう」や「かけておいて」の「おいて」にはやはり「感情」の「凸」があるのであり、けれども、その「感情」を抑圧する「態度」として「ほしいな」のほうが強く出力される。さらにこの歌がかなしいのは「オレの顔」ではなく「水を吐くオレ」という動作に対しそういう処理が行われる。生きていることの生々しさそのものに蓋をする感触があるのだ。

 

ここには前回取り上げた、「ボケというひどい名前の植物」の、それがどんな植物でも動物でもモノでも「ボケ」という「言葉」にのみ反応するのと同じ、「オレ」というものの極めて表面的な扱いが目的化されているように思うのだ。

 

・この人にひったくられればこの人を追うわけだよな生活懸けて

 

連作の表題歌でもある、この歌では、お金というシステム下での自身の行動がやはり記号的に扱われる。ひったくる相手も、それを追う自分も、入れ替え可能な、システム下における「立場」に他ならない。それを「追うわけだよな」というかたちで仮定する。先の「モザイクかけておいてほしいな」と、思考のあり方が近似していると思うのは、自分自身がシステムのなかでの「記号」でしかないという、それが他の誰でも同じであるという発想がここに「他人事」的な態度を生んでいるからだ。そしてやはりここでも、それを認識するという立場においてこの人の優位性が担保されているのである。

そうした「この人を追う」一連のなかにあって、唯一、身体性を感じられる歌が、

 

・全身に力こめれば少しだけ時間を止められないこともなくない

 

ではないだろうか。ここには確かに全身にこめた力が感じられるし、そのぎゅっという力によって「時間が止められる」ような感覚が「止められないこともなくない」という微妙なニュアンスによって、寧ろ実体化されているように思う。つまり、この「こともなくない」は「追うわけだよな」と態度としては近いわけだが、それが自身の身体を通して見いだされるところに、実体的な感覚がもう少し追及されている気がするのだ。けれども、同時にこの歌において、「全身に力をこめれば」とは決して言わない、「全身に力こめれば」とあくまで定型に落とし込むところ、「少しだけ」、「こともなくない」という、あくまでも現実的なこの人のまともさが、エネルギーを抑圧してもいて、非現実的な欲望と現実的な欲望が拮抗して歌をじとっとさせている。

 

それでも、自身の力によって「時間」を「支配」するといういわば非現実的な「欲望」がここで、身体性を通して描かれていることに注目する。

 

現実的な欲望の実現においてはシステムという枠に自己を圧縮する。つまりモノの存在を「言葉」と「意味」に平面化し、短歌定型に定着するという行為を通して、無味乾燥なシステムに敢えて落とし込む。そこに逆説的な一種の自己実現が図られているのに対し、非現実的な欲望の実現に対してはそこに改めて身体性が持ち出されているのではないか。

 

そのような仮説を私が立てたのは、「この人を追う」ではひどく抑圧されていたこの人の内在的エネルギーが、続く受賞後第一作「人狼・ぼくは」では寧ろ噴出しているような印象を受けたからだ。ということを次回に回そうと思う。