花山周子


中皇命
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野

中皇命(なかつすめらみこと)『万葉集』巻一


 

たまきはる うちのおおのに うまなめて あさふますらむ そのくさぶかの と読む。

中皇命が、天皇が狩をされるときに奉じたもので、歌意は、

 

(天皇は今ごろ)宇智の大野に馬をたくさん並べて朝の草が深く繁る野を(馬の脚に)踏ませておいでであろう、

 

という感じか。

長歌につけられた反歌として万葉集に最初に登場する短歌で、
作者の中皇命が誰であるかは諸説あるらしく、舒明天皇の皇女で、孝徳天皇の皇后であったところの間人(はしひと)皇女とする説が有力なようだ。
いずれにしても女性の歌である。

 

私はこの歌が昔から好きで、狩に行っている相手のことを想像しているわけだけれど、ゆったりした歌の韻律、調べには瑞々しさがあり、想像なのにすごく映像的で不思議な感じがする。広い野を馬たちが駆ける動きの起伏が歌のリズムの中に浮かび上がり、「朝露」とはどこにも書かれていないのに、朝露に濡れて朝日に光る草を馬の蹄が踏むところまで見えてくる。まるでハイビジョン映像を見ているようだ。

 

この歌の「たまきはる」がいいなあと思う。「たまきはる」は宇智や命にかかる枕詞だけど、「たまきはる命」などと詠いあげるのと違って、「たまきはる宇智の大野」には、もっと映像的な美しさがある。

 

そして、最後は「草深野」という体言止め。
私はあるとき、この「草深野」がいいなあと思った。ふつうなら、「深草野」となりそうなところ、草を先にするだけで、生えている草の感じが出る。草が深い、深いって感じがする。「深草野」よりずっといい、と。

ところが、わざわざこう思ったがために、その後、私はこの歌が「深草野」だったか「草深野」だったか分からなくなってしまった。どっちが、どうで、どういいんだったか、いつも考えてしまう。

 

ところで、三省堂の『名歌名句辞典』には次のように書かれている。

 

「草深野」は「草が深く繁る野」の意味を凝縮して臨時的に造られた語(造語)である。

 

面白いなあと思う。