本多真弓/寝室にひもの一本垂れてあり昭和の紐をひいて眠らな

本多真弓『猫は踏まずに』(六花書林・2017年)


 

・寝室にひもの一本垂れてあり昭和の紐をひいて眠らな

 

連作のなかでは、実家での歌だとわかる。
わからなくとも、ふだんの家の電灯の紐であれば、わざわざこうは思わないから、ふだんは電灯の紐を使わない生活をしていて、つまりふだんとはどこか別の場所にこの人はいる。それは、「昭和」という場所で、「昭和」ではとっくになくなっている現在=「平成」とは、違う場所としての「昭和」であるはずだ。

 

だけど、「ここ」がふだんとは違う場所であることが、別世界的な何かを連れてくるというよりは、「ふだん」という路地の奥の行き止まりのように、感じられる。

 

紐を引くという動作、それによって、電気が消え、真っ暗になり、眠る、という一連の経過を歌の背後に置きながら、寝室の「ひもの一本」をわざわざ「昭和の紐」と言い直されるとき、「昭和」という場所にただ突き落とされるような感覚がある。

 

「ひいて眠らな」であるから、まだ紐は引いていないのだし、「眠らな」というやわらかな言い方をしているのに、「昭和の紐」という断定が、その突き落とされる真っ暗闇を連れてくるのだ。

 

そして、なぜだか、この歌を読んだとき、私は、「平成」でも「昭和」でもないどこか別の場所にこの人がいたのなら、どうだったのだろうか、と考えた。

 

本多真弓さんの歌というのはその断定の強さが逆に思考の隙を生むというのか、読んでいると、いろんなことを思わされる。

 

・左から右へ流れてゆく時間 再生ボタンはみな右を向く

 

言われてみれば確かに、再生ボタンは、いつも「▶」で、テレビ画面を見るとき、私のなかで時間は右に流れている。下や奥に流れたっていいはずなんだけど。そして、本多さんがわざわざこう詠うのは、やっぱり、時間は右とは限らないよね、という気持ちがあるからで、

 

・わたくしが働かなくていいところ宇宙のどこかにないかなあ ない

 

って、思ってるわけで。これは素朴すぎる歌かもしれないけれど、でもここでもやっぱり「ない」って最後に決めつける。決めつける必要はないはずで、せっかく「宇宙」みたいな思い切った範囲で考えているんだから、あってもいいんじゃないか。「昭和」でも「平成」でも「東京」でも「日本」でもない場所に本多さんがいたならば、と私はやっぱり考えている。それは、ただの仮定に過ぎず、この世にはやっぱり「ない」のだろうか。

 

いろんな人の歌を読んでいると、断定する、という一つの態度の、その背後には、いろんな心情や、思考の傾向がある。本多真弓の歌の場合、一種のマゾヒストというのか、自分自身を断定することで自分自身が傷を負っている。本多真弓は傷だらけの天使だと思う。

 

・わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに

 

この歌は、『猫は踏まずに』の栞でも、解説でも必ずといっていいほど挙げられているものなので、本当はこの歌は踏まずに書きたいところだったのだけど、やっぱり踏んでしまうのだった。「猫なんて踏もうと思ってもそう踏めるもんじゃない」と穂村さんが歌集の栞で書いていて、確かに、と思って笑ってしまったのだけど、踏もうとしたってそう踏めない猫を「一匹たりとも猫は踏まず」に一生懸命歩いている本多さんは、自分のことはにべもなく踏んでいる。そこに、私は武骨すぎるやさしさや愛情を感じてしまうのだ。