奥村晃作『蟻ん子とガリバー』(ながらみ書房・1993年)
奥村晃作の作品の中でも破壊力抜群の一首である。
奥村作品の特徴のひとつに〈認識の歌〉がよく挙げられるが、掲出歌も存分に認識が表れている。だがそれは余人は普段あらためて認識しない種類のものであり、掲出歌で言えば、一般に犬はワンワンと啼くからワンちゃんという普通名詞が冠されるようになったというのは語源的にはたしかにその通りだろうが、これをわざわざ作品にする必要があるのかと思う読者も一定数いるのではないか。
初句の「一般に」も破格で、短歌のセオリーを知る人ほど、この語から一首を詠い起こそうとは普通思わない。そのため、文体もかなり散文的かつ無防備に見えてしまう。もっともこれは酔拳のようなもので、散文的かつ無防備に感じてしまうこと自体が既に奥村の術中にはまってしまっているのである。
奥村からすれば自身の認識をありのままに、衒いなく自分の心情に即した言葉および順番で提示しているに過ぎない。だが、その認識や言葉の斡旋がしばしば人の常識や固定観念の盲点を突く。その意味で奥村の歌は物凄い破壊力を有しており、読者はしばしば後ろから吹っ飛ばされる。
次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く 『三齢幼虫』
もし豚をかくの如くに詰め込みて電車走らば非難起こるべし 『鬱と空』
ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く 『鴇色の足』
梅の木を梅と名付けし人ありて疑はず誰も梅の木と見る 『父さんのうた』
〈入口〉と〈出口〉とあって投票所出て来た人に〈出口調査〉す 『男の眼』
権太坂(ごんたざか)完全舗装されたれどその道の持つ傾斜変わらず 『キケンの水位』
奥村の、特に認識の歌を読んでいると、最近テレビでよく見るようになった将棋棋士の加藤一二三九段、通称ひふみんを思い浮かべる。加藤一二三に会ったことはないけれど、本当に純粋で、無邪気で、真面目で、自分の感覚に率直に生きている人なのだろうと感じる。加藤一二三の場合は、周囲の人たちは本当に大変なときもあるだろうなと思うこともないではないが、自分の心の動きに忠実で、自分の心が動いた対象に対しても真摯に向き合っている点では奥村の歌と何か通じる気がする。念のために申し上げておくと、これはあくまで奥村の歌の印象の話であって、奥村晃作自身が加藤一二三的なキャラクターという意味ではない。
40歳代になって、ある事物に自分の心が動いたときにその動きに忠実に言葉が出て来て、しかも無理なく五七五七七の形になっていれば、それは理想というか無敵なのではないかと思うようになった。20歳代のときはそんなことはまったく考えもしなかったけれど。
奥村は、齋藤茂吉が唱えた実相観入とはまた違う意味で、表面的な写生を超えて対象に自己を投入し、自己と対象とがひとつになった世界を具象的に現している。その意味で奥村は、間違いなく現代短歌のひとつの到達点を示している。
この項、次回に続きます。