坂井修一/うちいでて鶺鴒あをし草深野一万人の博士散歩す

坂井修一第二歌集『群青層』(雁書館・1992)


 

いくつか「草深野」の歌を紹介してきたが、
現代の「草深野」の歌といえば、今日のこの一首ははずせないと思う。

 

・うちいでて鶺鴒あをし草深野一万人の博士散歩す

 

それにしても、この歌(というか、坂井修一の歌の特長でもあるのだが)、田口綾子さんの「闇鍋記」じゃないけれど、一首全体が言葉の闇鍋みたいなところがある。

 

「うちいでて」という戦国の男たちが戦に向かうような壮観なイメージの主語は「鶺鴒」。その辺によくいる小さな華奢な鳥だ。その鳥たちのいる場所は、万葉の「草深野」で、そこから「一万人の博士」という現代の特殊な風景に一足跳びに着地する。「一万人」という数詞が「うちいでて」のイメージに繋がるわけだけれど、「うちいでて」の勇壮さとは打って変わって、最後は、「散歩す」となる。

 

言葉と言葉が決して鍋の中で溶け合わず、ポタージュにはなるべくもなく、かといって、いも煮のような、味の調和を持たず、ごろごろとそれは異物感をもって、鍋から出てくる。この言葉の闇鍋感が坂井の歌の特殊なエネルギーを生んでいるような気もする。

 

歌集名(筆者注:『群青層』)は、歌に青系統の色が多く登場し、結果的に青が全体の基調となっていることからつけた。

 

とあとがきで書かれているが、
この歌にも「あを」が登場する。といっても、これは直接には鶺鴒の背の「黒」を指すものであろう。黒馬のことを「青毛」というように、昔の「あを」は、黒と白の間の広い範囲の色をいった。これはとても繊細な色の見方で、黒のうちにごくわずかな青味を感受して、「墨」や「鉄(くろがね)」などと使い分けられていたのだ。

 

鶺鴒の黒も同様に、光の加減で青くも見える硬質な黒である。坂井はそれを踏まえて「あをし」と言っている。同時にこの黒と白の華奢な鳥は「一万人の博士」に見立てられているわけで、ここには人間的「青さ」―繊細さやひ弱さ、若さ、未熟さ―をも読み取れるのではないか。さらに、それら博士たちの姿は、古代の「深草野」という場所から相対化されることで、現代の人間の「あをさ」というようなものさえ、俯瞰的に浮かび上がらせる。

 

一万人という人数が多いのか少ないのか、一概には言えないけれど、それが「博士」であるのは、やはり多い気がする。現代の選ばれた精鋭たちがここに一万人もいる。それが「うちいでて」、ただ「散歩」している。学会とか、大学での現実の風景でもあると思うけれど、それにしても、これら博士たちの姿は「うちいでて」という学問に携わる当初の意気込みを骨抜きにされて、学問の「草深野」で飼い殺しにされているような、坂井自身が現場にいるからこその悲壮感のようなものが漂う。万葉の世でも、戦国の世でも、明治の世でもない、まさしく現代(1986年当時)の学問の現場を言葉の闇鍋によって描く風刺画になっているのだ。

 

ところで、「草深野」の使い方に注目してみると、
前回の黒木三千代の歌では「草深野」に「露けくてあえか」という形容を敢えて付与することで、女性の側からの複雑なアイロニーを匂わせているのに対し、坂井の歌では「うちいでて」というように古代の男たちの勇壮なさまを土台にすることで、現代の博士たちの姿をアイロニカルに逆照射している。同じ古代の言葉を使用しながらその使い手によって自ずとアイロニーの位相が異なっているのだ。

 

既にこの歌の頃から三十年の時間が経過しているけれど、今では「うちいでて」という当初の意気込みすら、あるいは一万人が散歩する、という博士たちの長閑さすら失われているのではないか。遠い昔や現代の言葉を一首の中に投げ入れることで、現代を相対化する坂井の歌は、その未来(現在)をもまた、俯瞰しているのかもしれない。

 

なお、『群青層』は、今はなき雁書館から刊行されていて、今ではなかなか手に入らないかもしれないが砂子屋書房の現代短歌文庫『坂井修一歌集』に全篇収められている。