生沼義朗


田口綾子/そこに直れ、歌にするから歌になりさうなポーズを今すぐに取れ

田口綾子『かざぐるま』(短歌研究社・2018年)


 

 

前回とは毛色の違う魅力の異なる歌なので、あえて二回に分けて書くことにする。

 

繰り返しになるが、田口綾子は短歌で人物を描くのが上手い。その点に共通して、他者はもちろん自分自身のキャラも立っているのも田口作品の特徴で、「そこに直れ」といった大仰な言い回しは歌舞伎の見得を切るような効果がある。「歌になりさうなポーズ」とは一体どのようなものかは読者に委ねられているので、おのおので自由に想像すればいいのだが、わかるようなわからないような不思議な意味的なうねりと魅力を有している。

 

やや話は逸れるが、『かざぐるま』の書評などを読んでいると、巻末の「闇鍋記」や掲出歌、あるいは

 

 

「おいしいものしりとりしよう」と誘ひたるに「ごはん!」と即答されて終はりぬ

 

 

などの歌がよく言及される。掲出歌の「そこに直れ」にしても、「しりとり」の歌にしても、比較的フラットな夫との関係性がビビッドに描かれ、奥に田口特有のユーモアが漂う点で共通する。もちろんいい歌である前提で言うのだが、ここが必要以上にクローズアップされることは田口にとっても本意ではない気がするし、『かざぐるま』の特徴を精確に端的に映し出してもいないのではないかとも思う。それは、前回挙げたような仕事の歌に自虐や生きづらさを見出すことや、

 

 

答案が憎いよ月夜 鍵穴にさしつぱなしの鍵つめたくて
夕暮れを漂ふ帽子、とりどりのいづれは玉城徹の帽子

 

 

といった本歌取りやパロディから(ちなみに一首目が永田紅の〈ああ君が遠いよ月夜 下敷きを挟んだままのノート硬くて〉、二首目は玉城徹の〈夕ぐれといふはあたかもおびただしき帽子空中を漂ふごとし〉が本歌である)田口の遊び心を読み取ることも同様である。だが紛れもなく、作者である田口綾子の作品傾向を象徴的に現しているのも確かだ。

 

その理由は、田口の作風や文体のバリエーションと関係する。『かざぐるま』にはオーソドックスな歌から意欲的な連作、叙景歌から本歌取りやパロディまで、いろいろなタイプの歌が入っている。これは自分の力をいろいろと試してみたい欲求というよりは、読者に対するサービス精神の表れだろう。そうした読者への向き合い方が、作者の意図に関係なく、読者に対してある光を放っているのも事実である。

 

その作者の代表歌は作者が決めるものではなく、読者が決めるものだ。そう考えると、田口の資質をユーモアやサービス精神の部分に見出すことは間違っていないのだが、一方で、これは田口に限らないが、この作者の代表歌は本当にこれなのか、あるいはこれでいいのかと思うことがないでもない。

 

田口に関して言えば、そうしたいくつかの要素を今後絞る必要があるのか、それともこのままでいいのかは、もう少し時間を掛けて見定めたいのが自分の率直な意見である。