奥村晃作/正確に刻んだ結果十ミリの女人立像ジャコメッティの

奥村晃作『八十一の春』(文芸社・2019年)


 

前回に引き続き、奥村晃作の歌を取り上げる。掲出歌は、先日出たばかりの最新歌集『八十一の春』の「ジャコメッティ展 国立新美術館」一連2首の1首目。2017年に東京・乃木坂の国立新美術館で開催されたジャコメッティ展を詠んでいる。ちなみにもう1首は

 

極大と極小怖れ一メートルに決めて刻みしあまた女人像

 

 

という歌である。

 

ジャコメッティといえば、多くの読者は身体を線のように長く引き伸ばした彫刻をまずイメージするだろう。掲出歌は読んだ通り、ジャコメッティは正確に見たままを彫刻に刻んだ結果、全長10ミリメートルの女性の立像が出来上がったという意味内容なのだが、これは遠くから見た対象は小さく、逆に近くから見た対象は大きく、対象を見えたままに表現しているジャコメッティ彫刻の特徴を知らないと理解しにくいかもしれない。

 

奥村の歌も、見えたものを見たありのままに描いている意味でジャコメッティ彫刻と共通するものがある。すなわち、心の動きに応じて出て来た言葉を、そのままの言葉その通りの順番で短歌形式に刻んでゆく。奥村が歌集『ピシリと決まる』(北冬舎・2001年)のあとがきで、

 

 

コトやモノ、あるいはコトバと出会って心が動く。感動する。動き出した状態にある心をわたしは情(こころ)と表記するが、その情のまったき表現を目指す。仮に一首の中に助詞が五個使われているとして、それぞれの場所における五個の助詞は(そしてすべての言葉は)アプリオリに、イデア的に決まっているのであり、一つでも違(たが)えたならば情の、感動のまったき表現態とはならない。感動をつゆそこねることなく、百パーセント一首の中に実現すること。

 

 

と書いている通りである。「それぞれの場所における五個の助詞は(そしてすべての言葉は)アプリオリに、イデア的に決まっている」の「アプリオリ」は先天的、「イデア的」は理想的という意味で、そこは個人的には意見が異なるのだが、ここまで歌論と実作が一致している歌人もめずらしい。

 

掲出歌が、「正確に刻んだ結果」というやや固い言い回しで始まるのは奥村の関心の在処を示しており、同時に「十ミリ」という今現在見ている彫刻の外形的特徴をあらわす言葉の前振りにもなっている。下句は、「ジャコメッティの女人立像」でもよいはずなのだが、「女人立像ジャコメッティの」としているのは倒置というよりも、まず「十ミリの女人立像」を認識し、その後にジャコメッティが作者であったと認識した意識の流れを忠実に示している。

 

前回この欄で「ある事物に自分の心が動いたときにその動きに忠実に言葉が出て来て、しかも無理なく五七五七七の形になっていれば、それは理想というか無敵なのではないかと思うようになった」と記した。

 

もちろんこれは誰にでもできることではない。つねに心が動く状態にしつつ、なおかつ定型を自在に使いこなせる手腕がなければ不可能だ。実作者ならわかるだろうが、日常生活の中でつねに心が動く状態にしておくのは、実は簡単ではない。短歌を作ることがいい意味で習慣化されており、それゆえに定型と作歌のノウハウが血肉になっているからこそで、それは長年の修練の賜物に他ならない。

 

だからこそ奥村は、これも同じ結論を繰り返して恐縮だが、「齋藤茂吉が唱えた実相観入とはまた違う意味で、表面的な写生を超えて対象に自己を投入し、自己と対象とがひとつになった世界を具象的に現している。その意味で奥村は、間違いなく現代短歌のひとつの到達点を示している」境地に達することが出来たのである。

 

もちろんゴールは一つではない。皆が皆この境地を目指している訳でもないし、目指す必要もない。だがこの境地はひとつの頂上であることも事実で、その意味で奥村は賞賛を受けてしかるべきである。