花山周子


五島諭/歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah

五島諭『緑の祠』(書肆侃侃房・2013年)


 

・歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah

 

今日はこの歌の「yeah」という感嘆詞について。
「yeah」という感嘆詞がなんとなく私にはバブル期の感じがする。小泉今日子の「学園天国」(1989年)とか、あの浮かれ気分の底抜けに楽しい感じ。だけど、この歌の「自分yeah」にはそういう浮かれた感じがぜんぜんない。ふつう、リフレインされる場合、その感情が強調されたり増幅されたりしていくものだけど、四回も繰り返される「自分yeah」は、小文字のせいもあって、どんどん小声になって、西日のなかに消え入りそうだ。

 

五島さんと私は年齢的には一つ違いで、同世代ということになると思うが、私たちの世代はちょうどバブル期の楽しそうで軽薄な文化のおこぼれを食べながら育った。そういう自分たちが、思春期になるころに流行ったのが、野島伸司の「高校教師」(1993年)とか「未成年」(1995年)などのドラマで、森田童子やカーペンターズ、ABBAなどのリバイバルの曲が流れ、哀感のあるおしゃれなムードを漂わせながら青春が破滅してゆくこれらのドラマは、今思えばバブル崩壊直後の時期と重なる。こういうドラマを五島さんが見ていた可能性は限りなくゼロに近いけれど、ともかくも、私たちの世代は青春を目前にして、青春ってものの終わりを見ていた。

 

だから、五島さんのこの歌の「yeah」はバブル時代のおこぼれの「yeah」を手に持ちながら、それの正しい使い道がもうなくて、ひとり、自分を「自分yaeh」と言っている。何度も言っているのは、これはひとつの呪文だからだ。

 

私はこの歌が好きじゃない。なにが、自分yeahだ、と思う。だけど、私が、ずいぶん以前からこの歌とセットで覚えている、そして歌集中でも並んで置かれている、

 

・夕映えは夕映えとして 同世代相手に大勝ちのモノポリー

 

という歌は、好きだ。この二首をならべて読むとき、心底、同世代の、そのなかでもとても聡明な人の歌だと思う。同世代相手にモノポリーに大勝ちしても、何かに勝ったことにはならない。そういう人生の勝ち負けとはまったく違う次元の勝負のよろこびは、ゲームというものの究極の純粋さであるはずだ。それは、「夕映えは夕映えとして」という夕映えの純粋な価値と並列しておかれる。比べようもなく二つの価値は高い。そして、どちらも、いまの資本主義社会とは別次元の価値として恍惚として存在している。

 

それまでの、社会と青年→壮年→老年という人生とがセットになった、その時間の経過にともなって貯蓄も増えてゆくような資本主義世界の末期の姿を横目に見ながら、それとは違う価値があるでしょ、ということを五島さんの歌は、細心の注意を払って、慎重に慎重に歌にしている。そして、その価値を純粋なまま提示するために必要なひとつの架空の範囲が「同世代」ということになる。私はだから『緑の祠』という歌集を「同世代の世界」の歌集だと感じるのだけど、それは、冒頭で私が言ったような世代論的なそれとは微妙に違っていて、五島さんの思う価値を生やすために、ごく自然に選ばれた最小範囲の土地が、互いにヒエラルキーを持つことのない「同世代」だったのだという気がしている。そして、そこで詠われる五島さんの「短歌」が究極に純粋な彼の「価値」なのだと思う。

 

そんなわけで、「自分yeah」は、バブルのおこぼれを自分たちのために使うための、とても小声で言わなければいけない、呪文なのだ。

 

・遠巻きに雲は流れるひとびとの爪を不思議な色に光らせ

・柚子、柚子と柚子を見つけて騒いでは柚子投げ上げて柚子受け止めて