遠藤由季/風立ちてわが額へと注がれる落ち葉の痛し洞ならざれば

遠藤由季第二歌集『鳥語の文法』(短歌研究社・2017年)


 

・風立ちてわが額へと注がれる落ち葉の痛し洞ならざれば

 

風が立って、自分の額に落ち葉が当たる。「額」という狭い面積に対して、その葉が「注がれる」と詠う。ここには、心情的なものも汲み取れると思う。汲み取れると思うし、実際に枯れ葉がぶわっと自分に吹き付けられたときの目をつぶる。その暗がりの風のなかに額の感覚だけが残されて、落ち葉が注がれているように感じられるのだ。そして、「落ち葉の痛し洞ならざれば」という。自分の身体、あるいは心は洞ではない。洞ではないから、落ち葉が痛い。というこの痛みの感触は、痛みをきちんと体で受けている、とても真っ当に痛みを受けている、と思う。漢字の多い歌で、もっとひらいてもいいような気もするけれど、小刻みに置かれる漢字――「額」「注」「落」「葉」「痛」「洞」が、まるでぶつかってくる枯れ葉の一枚一枚のようでもあり、それぞれが読むものの目にも痛く、ぶつかってくるのだ。

 

遠藤由季さんの歌を読んでいると、繊細な皮膚感覚を太い実存のほうで引き受けているような、自分が存在している、そのことの真っ当なかなしさがある。

 

・センサー付き照明のある家並び体温で灯をひらいて過ぎる

 

ただ暗い夜道を歩く自分は、体温を持つ身体であるがために、「センサー付き照明」の繊細な感度を反応させ、「灯をひらいて過ぎる」ことになる。並んでいる家の、その内側の家庭のどれもが自分とは何の関わりもないのに、身体が存在しまっているそのことが、家々の壁の外の誰もいない空間に灯をともしていくのである。

 

・角にある〈かどや〉の影に残りいる雪は圧縮されて透明

 

こちらの歌では逆に、物質という存在の内側に視線がそそがれている。路の脇に寄せられた雪は日陰であると、そこだけ何日か残っている。そういう雪は、雪の白さはなくなって汚れて濡れながら、その内側は透明である。「圧縮されて透明」には、痛みがある。

 

・短めの人生でいい一本の身体を秋の服に通せり

 

「短めの人生でいい」といったあとに、「服を通せり」と言われると、短めのワンピースを着たような感じがする。この歌自体、とても短い感じがして、なんだかとてもさっぱりとした歌だ。

 

個人のかなしみや痛みを抱えながらも、つねに存在に対する感度を失わない遠藤由季の歌は、どこかさっぱりとしていて、生の逞しさそのものが息づいていると思う。