花山周子


白石瑞紀/さざんくわの咲きゐる枝の両腕を空にさしあげ雪だるまをり

『みづのゆくへと緩慢な火』(青磁社・2018年)

※歌集の途中で旧仮名表記に変更されているため、引用歌は、旧仮名・新仮名になっている。


 

東京なんかで雪の降った翌日には、町の風景はふだんとはまったく変わってしまって、あちこちに、可愛い雪だるまや、不格好な雪だるまが出現する。ふしぎなのだが、雪だるまのそばに、それをつくった人の姿は見当たらず、雪だるまだけが、突然現れたような趣がある。なんだか、置き去りにされているようでもあり、次の日には姿を消してしまう雪だるま、というものは、はじめから、ちょっとかなしい。けれども、今日の一首の雪だるまのかなしさは、もっと彫りが深いと思う。

 

・さざんくわの咲きゐる枝の両腕を空にさしあげ雪だるまをり

 

雪だるまの手に、さざんかの花のついた枝が使われている。雪だるまの作者にしてみれば、かわいいアレンジのつもりだったに違いない。それとも、他に腕にする適当なものがなかっただけなのか。ともかくも、大した考えはないのである。けれども、この趣向は、単なる枝が刺されているのとはだいぶ違う印象を雪だるまに齎している。上に向けて刺されたその枝の、手にあたるはずのところが咲く花である。しかも、実際の人間の腕のような長さも関節も持たない短い腕の先に花が咲いている。これは、ほとんど悪趣味に近い無残さだ。雪だるまの作者の無邪気さも相まって、この雪だるまのかなしさは胸に余るものがある。

 

その胸にあまるものが、「さざんくわの咲きゐる枝の両腕を空にさしあげ」という言葉運びによって、ひとつの景として差し迫る。なかなかこうは言えないと思う。ふつうだったら、雪だるまに刺されし枝のその先にさざんくわの花…、みたいな語順になってしまう。それを、「さざんくわ」から歌を切り出している。「さざんくわの咲きゐる枝の両腕を」というふうに、作者がそのとき受けた印象が、一首のなかで改めて雪だるまとして形象化されていく。作者の眼差しによってもう一度彫り出されていくのである。そしてこのような眼差しに、そこにとどまることの我慢強さ、を感じる。

 

『みづのゆくへと緩慢な火』には、自身の病、父や祖父の死、母の病などとても辛い体験が詠われているけれど、一冊を通して感じられるのは作者の我慢強さである。それは、自身の我慢強い態度が詠われているということではなくて、詠うときの眼差しの置き方が我慢強いと思うのだ。それはタイトルの『みづのゆくへと緩慢な火』という細く流れてゆく水や緩慢な火の鈍い苦しみを、静かに炙り出してもいるのだと思う。

 

・街や森が車窓の顔を透くゆえか見知らぬ人のように見ゆるは

 

電車の車窓に映る自らの顔が知らない人のように見えるのは、そこに街や森が映り込み、顔を透いているからだろうか、と詠う。この感覚はきっと誰もが体験していると思うし、車窓に映る自分の顔というのはよく詠われるモチーフでもある。そうした歌のなかにあって、この歌の白石瑞紀の「顔」の寡黙さは、とても魅力的だ。「街や森が車窓の顔を…」と詠われるとき、実際に街や森が顔にかぶさってくるようで、「顔」はずっと後ろに後退し、さらに、それを見ているはずの本当の「顔」は歌のずっと背後に後退している。そんなふうに背後に置かれた「顔」からの眼差しが、この歌に不思議な湿度を与えているように思える。「ゆえか」「みしらぬ」「みゆるは」の音の韻きには、私の個人的な語感からくる感触なのかもしれないけれど、うるむような湿度が感じられる気がするのだ。雨が降っているとか、そういうことでもなくて、ただ、この街や森や見知らぬ人のような顔は、乾いた景色ではない。歌は黙って叙景歌のようなたたずまいをしているけれど、そこに作者の水晶体を通した、抒情が生まれていると思うのだ。