花山周子


大辻隆弘/箔かろく圧したるごとき雲はゆき風明かりする午後となりたり

大辻隆弘第七歌集『汀暮抄』(砂子屋書房・2012年)


 

今日の一首は、私が「未来」誌上ではじめて目にしたときから愛唱する一首である。
この歌には人間の灰汁というものが少しもない。私は何度もこの歌を口遊みながら、もうそれは言葉ではなくて、ひとつの透明な旋律で、午後の風明かりのなかに、口遊む私自身が透明になる心地がする。

 

・箔かろく圧したるごとき雲はゆき風明かりする午後となりたり

 

「箔かろく圧したるごとき」の「かろく」の感じは、箔を実際に圧すときの力の強弱とかではなく、「はくかろく」という言葉の韻き。薄い薄い箔が、それが金箔か銀箔かとかではなく、箔かろく圧されたとき、空の空間のそこにだけ淡く鈍い光沢が生まれ、けれどもその雲はすぐに行ってしまい、残像さえ残さない。

 

この雲の印象に、

 

・ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 佐佐木信綱

 

の、「一ひらの雲」を思い浮かべたりもする。
「はくかろくおしたるごときくも」と「ひとひらのくも」の韻きの、かるさ、はかなさ、はどこか似ている。そして、「一ひらの雲」もそのときふと現れて、しばらくすれば消えてしまうたぐいの雲であり、初句「ゆく秋の」という、過ぎ去る季節のなかに浮いている。けれども、信綱の歌では、ある時期までの西洋絵画の技法のように読者の視線を「一ひらの雲」へと運ぶ構図が明瞭で、読者の視線は結句に至って「一ひらの雲」にとどめられる。だから、やがて消えてしまう「一ひらの雲」はこの一幅の歌のなかにあっては、永遠の時間を手にしてもいるのだ。この歌は信綱の手によって一首におさめられた静止画なのである。

 

けれども、大辻隆弘の雲は、違う。この雲は音楽のように時間に運ばれている。
そして、それは読み終わるときには、淡雪のように消えている。

 

ある風景や時間が音楽のように感じられるときがある。
それは限りなく芸術的な瞬間で、けれど、そこにはもはや自己というものは介在できず、すべてのものも自分自身もその音楽の風のなかにある。もし、それを作品化しようとするならば、自己を抹消しなくてはならなくて、この歌が、その作品化に成功しているのもまた、作品化する作者の「手」そのものが抹消されているからではないか。人間的灰汁の一切ない、短歌という定型のフォルムさえ感じさせない、透明な透明な歌だと思う。

 

ちなみに、この歌が収められているのは第七歌集『汀暮抄』なのだが、第四歌集『デプス』のカバー画の雲の淡さは、この雲を思わせる。大辻の歌集はいずれも砂子屋書房から刊行されており、倉本修装幀による、その美しい造本もぜひ手に取ってみて欲しいと思う。