生沼義朗


黒﨑聡美/海苔缶にゆび弾ませててきとうなリズムを生めば少しあかるむ

黒﨑聡美『つららと雉』(六花書林・2018年)


 

 

前回は仕事の歌を取り上げたが、黒﨑聡美の第一歌集『つららと雉』はそれだけで構成されているわけではない。流れている空気は仕事の歌もそうでない歌も共通するが、仕事の歌が黒﨑の作風を代表するものと思われるのも筆者の本意ではないのであえて2回に分け、今回は違う傾向の歌を紹介したい。

 

掲出歌は、海苔の缶を複数の指で(おそらく人差し指と中指、または人差し指と中指と薬指だろう)軽く叩きながら、気の向くままにリズムを出しているうちに気持ちが少しずつ明るんで来たという意味内容に共感する人も多いだろう。気分的には鼻歌や口笛と同じカテゴリーの行為だが、そこまで前向きというよりはもう少し鬱屈したものを抱えている印象がある。読者の共感を喚起しつつ、景色が既視感を呼び起こさない点はぜひ踏まえておきたい。

 

 

Yシャツの胸ポケットの底からは頭痛のもとのようなクリップ
薄紙を重ねるような淋しさをきみのからだに見つけてしまう
そしてまた知らない猫が二匹いる前髪にかかる影が重たい
管理所に青い長椅子ふたつあり口笛を吹く淋しさに似る
コインランドリーで書いていますという手紙忘れられずにまたひらいていた
リサイクルショップの奥へすすむほど時間は集まり重くとどまる
うずたかくタイヤの積まれた辺りからはじまっていた春と気づいた

 

 

どの歌もやや感傷的な印象とともに、バランスのよい内省が一首のすみずみにまでおよんでいる。身の回りのものを読む傾向が強いが、作品の詩性は紛れもなく、身辺雑詠の領域に留まらない。描かれている世界は一見限られた範囲で、作品世界のトーンも統一されているのだが、奥の見えないところまで意識された上で描かれているので、作品に狭さや低さを感じない。

 

歌集を通して雨を詠んだ歌が目立つが、これは去る2月24日(日)に東京の中野サンプラザで開催された『つららと雉』の歌集批評会の会場発言で、黒﨑が在住する宇都宮の風土と気候に触れた富田睦子の批評を聴いて得心がいくものがあった。黒﨑にとって雨は単に心象を表すものではなく、同時に単に現実の景色を表すものでもない。その両方を自在に行き来している。

 

黒﨑は自分の人間関係と周縁部を大事にしているが、それが独特のモチーフの扱い方と視線のやさしさに表れている。同時に、どの歌にも対象に対して思わず涙ぐんでいるような感覚があって、読者はそこに感応する。ゆえに一首一首が忘れがたいものなっている。

 

先に述べた『つららと雉』の歌集批評会は80名以上の参加者があって盛会だっただけでなく、作品はもちろん会場から出た批評の質と、作品と作者への愛情が相当高いレベルで釣りあっていたのが強く印象に残った。同じ結社なのでスピーチは回ってこないので、一番後ろの席で気楽にメモを取りつつ参加者の多種多様な発言を聴いていたのだが、自分なら何を話すかという観点で書いてみた。