生沼義朗


鈴木陽美/伸びた分だけしか切らず変わらないわたしが初冬の街に出てゆく

鈴木陽美『スピーチ・バルーン』(ながらみ書房・2018年)


 

『スピーチ・バルーン』は「心の花」に所属する鈴木陽美の第一歌集で、2000年頃から2017年初夏までの382首が収められている。歌集題の「スピーチ・バルーン」はマンガに使われるふきだしを意味する。

 

あとがきで鈴木は「ここに収めた一首一首が私の口元から膨らんだふきだしに書かれていたように感じています。三十一音が入るだけのスピーチ・バルーン。それが私にちょうどいい大きさだったのかもしれません」と題にこの語を選んだ理由を説明しており、作品の傾向や性格を端的に言い表している。

 

掲出歌は一読、美容院で髪を切った際の歌だとわかる。ちなみにこの歌の一首前に

 

 

後ろからアシスタントの現れて前後左右の髪乾きゆく

 

 

という歌もある。大幅に髪型を変えることなく、いつも伸びた分のみしか髪を剪らない。ゆえに外形的には変わらない〈わたし〉が初冬の街に出てゆく。もちろん、外形的にはさほどの変化がなくとも、内面はそうではない。あたらしい気分であることは誰でも想像できる。その気分の変化が一首の眼目である。

 

 

ふるさとの夏の終わりは国道を薄荷を積んだトラックが行く
双六に似る地下鉄の路線図を五つ進んで乗換えしたり
地図上の基地を真青に塗りこめば美しき沼いくつ生まれむ
大粒のぶどう含めばたちまちに秋はわたしを味方につける
カレー鍋ぐずぐず煮込む日曜の家族三人みな眼鏡なり
束ねたる反故紙で切りし指の傷傘さすときにぴりんと痛む
まず橋を落としてしまう戦法のありてわたしのどこかがそよぐ

 

 

歌集自体が非常に読みやすくリーダビリティが高いが、二読三読に耐えられるだけの強度があるのは、一首一首が余白と余韻を保っているからである。抄いたような歌を20歳代のときにこの歌集を読んだなら物足りなさを感じたかもしれないが、40歳代の今読むとその余韻と余白に立ち止まるし、しみじみと感じ入るものがある。

 

上に抄いた歌の中でも印象に残ったのは5首目の「カレー鍋」の歌である。意味内容的には三句の「日曜の」でいったん切れ、「日曜の」は上句下句両方にかかる。いわば橋渡しの役割を果たす。もちろん、意味的には「日曜の家族三人みな眼鏡なり」はちょっと変で、別に日曜であろうがなかろうが家族三人(おそらく全員)が眼鏡をかけていることは変わらない。しかしここに「日曜の」がつくと、かけがえのない時間というニュアンスが加わり、一回性の時間がさらに歌に輝きをあたえる。さらに一首一首が何らかの機知を含むが、決して機知に走りすぎることはない。それゆえに全体にモノの手触りが確かなものになっていて、それがあざやかに読者に手渡されている。この観察眼の鋭さとまなざしの優しさ、そして機知が鈴木の歌の魅力であり力である。

 

去る3月2日(土)に東京の中野サンプラザで『スピーチ・バルーン』の批評会が開催された。70名以上の参加者があり盛会で、全体に好意的かつ高評価の発言が多かったが、一方で鈴木の歌の〈曖昧さ〉についての議論もあった。確かに鈴木の歌は、「スピーチ・バルーン」にうまく収められている一方、破れがあまり感じられない印象もある。当日のパネルディスカッションでパネリストだった小島ゆかりをはじめ、多くの参加者が「スピーチ・バルーン」をどう打ち破るかを指摘していたが、確かに現時点での鈴木の陥穽であり、ここをどう克服するかで今後の作品が大きく変わってくると感じた。