生沼義朗


花山周子/春風に杉の樹冠は揉み合える戦にも似る交合のさま

花山周子『林立』(本阿弥書店・2018年)


 

今年も花粉症の季節がやってきた。自分は花粉症ではないが、街でも大きなマスクやゴーグルをした人を見かけ、いかにも辛そうに感じる。この時期になると、杉が大量の花粉を放出する瞬間の映像をテレビの天気予報や花粉対策の薬やグッズなどのCMでよく見かけるが、花粉症の人は見るだけで症状が出てしまうのではないか。

 

掲出歌は、そうした景色をおそらく映像か写真などで見たのだろう。「杉の樹冠は揉み合える」という描写には、密生した杉林の臨場感がある。

 

「交合のさま」は強い措辞と言えば言えるものの、杉は雌雄同株だが一本の樹につく花は雄花と雌花に別れており、雄花の花粉を風に乗せて雌花に運ぶ。自家受粉もするそうだが、他の樹の花粉と交配することで遺伝子の多様性を高めているらしい。そう考えると、杉が花粉を放出するさまは、杉からすればまさに繁殖行為である。しかし一定数の人間からすれば災難以外の何物でもない。

 

「戦にも似る」は、風に舞う数多の黄色い杉花粉の異様さを喚起させ、そこから繁殖が本来持つすさまじさや、杉花粉と人間との戦いまでをも容易に連想させる。言葉の緩急のつけ方や配合のバランスが絶妙である。

 

『林立』は花山周子の第三歌集。2010年1月から2011年秋までの309首と長歌が収められている。所属誌「塔」で連載された、杉を題材にした連作「林立」の連載7回分が要所要所に配され、歌集全体に意欲的かつ目配りの効いた構成だ。

 

 

杉の根の軟弱さなど思いつつポケットに手を入れてバス待つ
欧州に「貧者の外套」と呼ばしめて森あり森を人は糧とし
背負うほどの月日をもたず春霖(しゅんりん)に若木の杉はしんねりと立つ
杉花粉少なき今年はるばると冷たき春の光は来たり
かの懐かしき電信柱は杉なりき明治の都市に林立したり
杉花粉に涙ぐむ人おのずから目に哀しみのともなうあわれ
約100℃の高温強制乾燥に杉が嘔吐せるべたべたのもの
国民を涵養したる風景とわれはさもしく杉を見ている
自らの下陰に降るひそけさの杉落葉 夏の季語なり
刈り立ての木の重たさの山肌にずっしりと倒るるまでの数秒

 

 

「林立 一」から「林立 六」までから、杉に関する歌を抄いた。杉を主題にした連作はあまり例がない気がするし、意外なテーマという印象もあるが、主題に杉を選んだ理由を花山は、「杉、には自分のやり方で、日本とか国家とか戦争というものを掘り下げていける予感があって興奮していた。(略)二〇〇九年ごろに、自分の子供の頃からの杉への関心がちょうど繋がってきたということがあって杉の連作をつくりたいという思いに至った」とあとがきで述べている。

 

連作はかなりのボリュームで、さまざまな資料や文献、エピグラフなどを積極的に詞書に採用している。決して杉のみに焦点を当てているわけではなく、その季節季節下の自身の風景や抒情に引きつけながら詠う。その手際があざやかかつ自在で、連作としてきわめて自然な印象なので読んでいて飽きないし、さほどのボリュームを感じない。連作の中の歌の配置も考え抜かれており、相当の意欲と気合いをもって作られたことも容易に察せられる。

 

さらに「林立 七」と題された、155頁から157頁に渉る長歌および反歌2首も圧巻である。一部の引用ではこの迫力や壮大さは伝わらないし、かといって全篇は長すぎるので引用できない。ぜひこれは実際に読んでいただきたい。読み始めは多少大袈裟な印象も抱いたのだが、読み進めるうちに杉をめぐる壮大な物語や花粉症の苦しみや嘆きが、朗々と詠う長歌のスタイルと不思議とマッチしてきて、一気に引きこまれた。

 

ただ、この歌集を読んだ読者が花山自身が花粉症であると感じたり、『林立』自体が杉や花粉症を悪として告発しようとする内容と考える人が出かねないことは気になった。事実はともかく、歌集を読んでも花山自身が花粉症と取れる直接的描写はない。たとえば、先に引用した歌の6首目はあくまで冷静に花粉症を描写しているのであって、仮に作者本人のことであったとしても読みとしてはいったん切り離した方がいい。杉に対しても、歌を読めば相当調べた上でかなり意識的にフラットに接していることはわかるが、あとがきから読み出した人はキリン草のエピソードに引っぱられてしまうかもしれないとは感じた。

 

念のため言っておくが、今指摘したことが悪いと言いたいのではない。この現象は今までの花山の作品が身めぐりを丹念にリアルに描写してきたことと無縁ではないし、もちろん短歌の私性の問題と関わることでもある。ゆえに軽々に結論の出せる問題ではないが、『林立』のような主題制作の強い歌集に私性をどこまで当てはめて読むかはまた別の問題だ。そこに一抹の危惧を感じたのであえて駄弁を弄した。そして、こうした危惧を抱かざるを得ないところに、短歌の私性の厄介さと悩ましさがある。