真中朋久/子の旋毛のやうだと思ひもう一度細線にかへて台風を描く

真中朋久第一歌集『雨裂』(雁書館・2001年)


 

『雨裂』は三章に分かれていて、あとがきには「家族構成が夫婦のみの二人から三人、四人に増えていくことにも対応する」と書かれているけれど、集中ではそうした人生的な変化はほとんど感じられないし、人気(ひとけ)がないと言ってもいいくらいだ。けれども、この歌集にはそのような起伏とは別の、人が生きていることの実感というようなものが、天候の変化や陰影に照らされ顕在化している。

 

・雪解けのみづ走りゆく何もなき空葬(からとむらひ)の春は来にけり

・午後三時県境に雲影(エコー)あらはれて丹波太郎は今生まれたる

 

いずれも、前回の歌と同じ「丹波太郎」と題された連作に置かれるもので、この連作冒頭には、「丹波太郎、山城次郎、近江三郎はいづれも雷雲の呼称である」という詞が付されている。

 

一首目では、瑞々しい雪解けの景を二句切れにして「何もなき」という不思議な感覚が差し出される。一見すれば、「空葬」と重複するようにも感じられるこの「何もなき」は、ふいに兆す意識の流れとして、歌のなかで独特の位置をしめているように思われる。そして、「空葬の春は来にけり」という。「空葬」は遺体が発見されない人のために仮に行う葬儀のことらしく、運ばれる柩が空であるからこう呼ばれるのだろう。「なにもなき」という意識の挿入によって、春というものに「空葬」の姿が見出されるのだ。生物が蘇ってゆく季節の明るさのなかに、心理的な影が差していて、さびしい。
二首目では、現代の科学者としての客観的な観察、「午前三時県境に雲影(エコー)あらはれて」に、「丹波太郎」という民話的なものが重ねられるとき、歌にはネガとポジのような照り翳りが生まれている。二首ともにふしぎな美しさを感じる。

 

そして今日の一首は、集中で最初に登場する子供の歌、と思われる歌であるが、直接に子供を詠っているわけではない。

 

・子の旋毛のやうだと思ひもう一度細線にかへて台風を描く

 

気象予報士としての仕事で、台風を描いている場面だろう。「細線にかへて」とあるから、おそらくPCの画面上で作業している。作業しながら「子の旋毛」みたいだなあと思っている。それは、まだ生えたばかりのやわらかな頭髪なのではないか。ぼやっとした輪郭の中心に渦を巻く、あれは、言われてみれば確かに衛星写真の台風を思わせるけれど、この時、真中の目に、普段からの作業がこのように映っていたのは、実際の赤ん坊の存在によるところが大きいのではないか。「子の」というシンプルな出だしは、直接に、我が子に繋がっている気がする。直接的な、妻の妊娠や子供が誕生したときの歌はないけれど、この歌において、以前と変わらない作業のなかに、自己の内側の変化がエコーのようにかすかに捉えられているのだ。