花山周子/三時草の爆ぜたるのちのさびしかる錆色の実を真夏に見おり

花山周子『林立』(本阿弥書店・2018年)


 

前回も取り上げた花山周子の『林立』は杉を詠んだ歌に秀歌が多いのでたしかに強く記憶に残るが、それだけではない。歌集を読んでいると、主題制作といわゆる日常の歌が交互に配置されバランスが取れている上に、そのふたつが歌集に複合的立体的なうねりをもたらしていることに気づく。杉の歌だけ取り上げるのも何だかフェアではないような気がしてきたので、2回にわたって触れることにしたい。

 

掲出歌は、なんてことない景色を詠んでいるが、ここに花山の本領が現れているような気がしたので取り上げてみた。

 

「三時草」で検索してみると、照波と呼ばれるツルナ科ベルゲランツス属の多肉植物もあるようだが、この場合はハゼラン科の多年草である爆蘭のことだろう。夏に高さ30㎝ほどの茎の先に、小さく赤い5弁の花をまばらにつける。午後の2、3時間ほどしか開かないため、三時草とか三時花と呼ばれているようだ。ふくらんだ蕾が次々と爆ぜるように咲く様子が線香花火を連想させるところから爆蘭の名がついたらしい。

 

観賞用に栽培もされるようだが繁殖力が強いため多くは野生なので、おそらく道端で見たのだろう。ふと見ると普段は咲いていない三時草の蕾がはじけて花を咲かせている。と同時に、爆蘭は細かな黒い種のたくさん入った小さな丸い実をつけるが、その錆色の実が寂しそうだと気がついた。

 

「真夏に見おり」には不思議な時間感覚が内包されていて、確かに爆蘭が咲いているのは真夏に違いないだろうが、「真夏に」を挟まなくても意味は通じる。そこにわざわざ「真夏」を入れることで作者の立っている時間や状況をあらためて鮮明にし、夏の暑さや湿度をまざまざとよみがえらせる効果がある。そして花山はおそらくそれを意図的にではなく、自然に行っている。景色をありのままに描きつつ、時間や空間をリアルに再現する力の高さこそが、花山の歌人としての能力であり、魅力である。

 

 

ふくらはぎ張りつめてくるぞろぞろと魚の死にせるところ歩みて

 

 

「岩手県大槌町の五月 二」という一連の三首目。2011年3月11日の東日本大震災の2ヶ月後に被災地のひとつである岩手県の大槌町を訪れた際の歌である。大槌町はこの地震が引き起こした津波と火災で壊滅的被害を受けた。なぜ訪れたかは一連の歌からははっきりわからないようにあえて書かれているが、瓦礫撤去などのボランティアで行っていたらしい。

 

一首の見どころはやはり、「ぞろぞろと魚の死にせるところ」を歩む異様な状況を、「ふくらはぎ張りつめてくる」という身体感覚で受け止めたところである。ふくらはぎが張りつめてくる感覚は、スポーツの後や疲れて帰ってきたときなどに意識することはあるだろうが、心理的緊迫感の比喩としては珍しいのではないか。だがここにはなまなましいリアリティがあって、読者はその状況と相俟って一種の厳粛ささえ感じる。

 

倒置にしていることも効果的で、時間経過的には上句と下句が逆なのだが、ふくらはぎが張りつめてくるところから書き起こすことで読者を一気に作品世界に引きこむ。

 

『林立』において数的には震災の歌は決して多くなく、歌集の後半に集中的に収められているが、これはおそらく編年体の歌集の構成に拠るところが大きい。歌集の掉尾には「五月に行った大槌町のことを思う今は秋」という長い題の一連があり、小学校のプールをのぞき込んだらヘドロが沈んでいて、そこから大槌町でのことを思い出す構成になっているのだが、ここにも花山の時間と空間への認識が垣間見える。

 

あと2日で東日本大震災から8年である。この8年の歳月を経て、花山が震災を、あるいは大槌町をどのように今だったら描くのか、そこにも興味がある。