花山周子


熊本吉雄/なんだかね自分もガレキになっちまった ガレキはガレキを片付けられない

熊本吉雄 2016年作 『震災のうた―1800日の心もよう』(河北新報・2016)


 

熊本吉雄さんは気仙沼の方。『震災のうた―1800日の心もよう』に、2012年末頃からその作品が見え、以降、十首が収録されている。その作品は、セリフや独特のオノマトペなども自在に取り入れながらそれらを作品化する手腕は一流のものがあり、河北新報歌壇の底力を思わされるのである。

 

・我家(うち)はねぇ、波じゃないのと語るひと船と車が壊していったの 2012年
・関連死という悲しみは残すまい衿立てて行くカウンセリングの日 2012年
・父母の安否も未だ、夕されば戸籍係はランタン点す 2013年
・焼けて立つ灯台一基を点景に乱反射して波は早春 2013年
・浜の雪ごうんごううんと鳴り伝い仮設の暮れは棟ごと傾ぐ 2014年(2013年末)
・外来種の店がにょきにょき生えてきて更地占拠し町は二度死す 2014年
・一番のカツオ船入りてたちまちに町に銀鱗の夏が充ちゆく 2015年
・なんだかね自分もガレキになっちまった ガレキはガレキを片付けられない 2016年
・五年経つ、ただそれだけのことなのにぞわぞわざわり息が苦しい 2016年

 

 

・我家(うち)はねぇ、波じゃないのと語るひと船と車が壊していったの 2012年

一首目では、「我家(うち)はねぇ、波じゃないの」という印象的な人の言葉がまず差し出される。「波にやられたのではない」ということの、現地の人同士の会話がリアルに捉えられている。そして、「と語る人」という叙述を挟み、「船と車が壊していったの」が置かれるとき、その残酷さ、非情さが、強くこちらにまで手渡される。おそらく語っている人は、自分の家を船と車が壊していくとことを、どこかから目撃していたのだろう。その言葉の、そこにあった苦しみが、作者の客観的な叙述を挟むことで直に手渡されるのだ。

 

・関連死という悲しみは残すまい衿立てて行くカウンセリングの日 2012年

二首目では、カウンセリングに赴くという、なかなか詠われないところをストレートに詠う。それも、「関連死という悲しみは残すまい」という思考のもとにである。自身を客体化することによって、ここでもくっきりと読者に手渡されるものがある。

 

・父母の安否も未だ、夕されば戸籍係はランタン点す 2013年
・焼けて立つ灯台一基を点景に乱反射して波は早春 2013年

三、四首目の景の切り取りにも注目する。三首目の「父母の安否も未だ」なのは、作者自身のことで、戸籍係りに通っているのだと思う。なんというか、歌の内容は、叙述と叙景のみのシンプルな構成なのだが、切れのいいはきはきした言葉の骨格に不思議と作者の意志が貫かれている気がする。

四首目の「焼けて立つ」は、あの日の津波の火事で焼けたものだろう。それと早春の波との景の切り取り。焼けて残っている灯台を立たせながら、季節はめぐり、今年(2013年)の早春がやってきた。「乱反射して波は早春」には風景そのものの生命感がある。

 

・浜の雪ごうんごううんと鳴り伝い仮設の暮れは棟ごと傾ぐ 2014年(2013年末)

 

五首目では、「ごうんごうううん」という独自のオノマトペが印象的で、宮沢賢治や齋藤茂吉、太宰治や寺山修司、小池光を生んだ東北の地の言語感覚というものを髣髴とさせる。東北の方言には「けそっとしてる」「めらってる」など、オノマトペ的な形容や副詞も多く、土地とそこでの生活・社会そのものが詩的な言語感覚を育んでいるように私には思われるのだ。それは、七首目の「銀鱗」なんていう言葉にも感じられると思う。「銀鱗の夏が充ちゆく」なんて、作者の歌柄にあってこういう詩的に美しい言葉が出てくるのも、東北ならではではないか。
さて、それにしても「ごうんごうううん」という雪の音は深い。浜からの風を遮るものがなにもない、広い広い夜の更地を吹いてくる風雪が思われる。「鳴り伝う」という表現には、その風雪の強さ、大きさが除夜の鐘のような荘厳さをも感じさせ、「仮設の暮れは棟ごと傾ぐ」に、昔話に出てくる一軒家のようなイメージを思わせるのである。

 

・外来種の店がにょきにょき生えてきて更地占拠し町は二度死す 2014年

 

そして、六首目、ここでもくっきりした物言いが印象的である。津波で、町がやられてしまったとき「壊滅」という言葉が盛んに遣われた。あれは確かに「壊滅」であった。それ以外に言葉が見つからないほどの壊滅だった。それでも、私が五月に大槌町に行ったときには、人家の瓦礫の中に路地のなだらかな蛇行や起伏が残されていて、晴れ渡った海辺の町の風景が、そこにどのような生活が営まれていたかが、想像されたのである。人の暮しの気配が濃厚に残っていた。けれども、その後、瓦礫は撤去され、更地にされ、そして、これまでになかった新しい店が建ったとき、本当に、それまでの暮しの痕跡は消えてしまったのである。復興という言葉の裏に隠された「町は二度死す」という現実。それでも、

 

・一番のカツオ船入りてたちまちに町に銀鱗の夏が充ちゆく 2015年

 

この七首目のように、地元の人たちの努力によって確実に活気を取り戻してゆく復興もある。海辺の町が蘇ってゆく風景が美しい。

そして、今日の一首。

 

・なんだかね自分もガレキになっちまった ガレキはガレキを片付けられない 2016年

 

2016年の歌である。瓦礫が取り払われ、更地になり、新しい店が建ちはじめたあとに、作者のこのつぶやきがあるのだ。自分自身がガレキになってしまって、もう自身で自身のことを片付けられない。「ガレキ」というカタカナ表記も印象的で、「瓦礫」と漢字表記であるときには、実質的な家やモノの断片のイメージが感じられるのに対し、「ガレキ」にはそういう実質感が失われてしまって空っぽな感じがある。「関連死という悲しみは残すまい」という意志のもと、自らカウンセリングに赴いていた作者が、こんなふうにつぶやいている。五年という歳月が及ぼした加齢によるところも大きいと思うけれど、それだけではないだろう。五年という歳月が作者に齎した喪失がこの歌にはあると思う。それでも、「なっちまった」なんていう語り口には、ユーモラスな調子というものが含まれていて、こういうサービス精神というのか、作品化するときの少しとぼけるような、それでいて、くっきりと読者に手渡す手腕は目を惹くのである。

 

・五年経つ、ただそれだけのことなのにぞわぞわざわり息が苦しい 2016年

 

そういう意味で、この歌は作者にしてはストレートすぎる歌かもしれない。
五年という時間は長いのか、短いのか、時間というものは捉えがたいものであるし、五年経ったということがどういう意味を持つのかもわからない。わからないけれど、改めて「五年経つ」と意識するとき「息が苦しい」のだ。