熊本吉雄/自制とは齢加えて思うなば何と無為なる時の越し方

熊本吉雄『あら汁――心災小景』(2012年)


 

前回紹介した熊本吉雄さんは震災直後から2012年五月ごろまでの作品425首を収録した、『あら汁―心災小景』という歌集を出されていることがわかった(昨日、実家に帰ったところ、母が出してきてくれた)。本書のあとがき、「祭文のごとく」には次のように記されている。

 

 はじめにお断わり、いやお詫びをしなければならない。本書の標題に「歌集」という言葉を用いたが、私は短歌について全くの素人である。入門書の一冊さえ読んだことがない。作法を知らない。文法を知らない。

 それで私家版とは言え上梓するなどもってのほかのことであるが、かの日から、どうしても祭文かお筆先のようにむくむく湧き起こる言葉が止められないので、ちょうど一年前から「河北歌壇」に投稿し少し荷を降ろしている。(時々は、選者の先生方の心づかいで、掲載していただいている。(※筆者注:作者の作品は『震災のうた――1800日の心もよう』に2012年から見られると前回書いたが、大澤吉雄の名で2011年から掲載されていた。))

 詠むでも詠うでもないモゴモゴとして強弱のリズムのみある祭文のうなりであり、のたくった筆のくねりである。それを短文に区切っただけの集まりが本書であり、他に表わしようがないのでおこがましいながら「歌集」とした次第である。

 

著者の記すように、確かにこの集に収められた歌は文法的には危うい表現も多い。自身のための日録的な意味合いが強かったのだろう、そのときどきの心の赴くままに書きなぐったような、生々しさがあり、前回紹介した作品と同じ作者であることにまず驚かされる。それでも、よく読んでいると、作者ならではのものの見方や表現が、いたるところで発見される。

 

冒頭の一連から紹介したい。

 

・悔しきは力なき我涙尽きず詫びる上司を労う部下よ
・安置所の検死に配す十九歳娘なる部下信じ祈りて
・「寝(やす)んでこい」「帰るところがありません」己の被災は誰も語らず
・「頭部のみ」「性別不詳」原点とす日を追うごとのリストの重さ
・整然と納体袋並び居るこの空間の不思議こそ識れ

 

熊本さんは、震災当時、行政職員だったようで、現場の苦悩がマグマのように伝わってくる一連である。一首目の「上司」はご自身のことなのだと思う。一、二首目の「部下」は同じ人なのか。ともかく作者は職場で上に立つ立場の人だったのだろう。「十九歳娘なる部下」、というのは、娘のような歳の部下、ということだろう。大事に思っているのである。まだ、新人である。その部下を「安置所の検死に配す」という状況に、愕然とする。そのような状況下にあって、互いを思い遣りながら、互いに「己の被災」については、語らない。相手が語っていないことに気づくのは、やすんでこい、と声をかけたときの「帰るところがありません」という返答によってである。そんな状況の人たちがここに居合わせて、激務をこなしている。リストに記載された内容の壮絶さ、「原点とす」からは、それ以降どんどん書き足されていったであろう記載内容のそこにある「重さ」が、思われる。何もかもが、つい先日までは想像すらしなかった、誰にとっても信じがたい仕事の連続であったのだ。

熊本さんは、五月頃に行政職員を退職されている。退職の理由は歌では具体的には語られていないが、その後、精神的な苦悩がずっと詠われてゆく。

 

・「被災者」の定義の外の痛み持ちやるせなき責め内へ内へと
・走り抜け我に残る苦しみは被災と言わず逃亡と言う
・一盃二盃忘れるために飲む酒にそのことだけが鈍く残りぬ
・胃の痛むが万年床に孤独死を掠めし朝は着換えて眠る
・手の平に小山に盛りし安定剤二度放り込むも胃も脳も空

 

集中には、もっと、抽象的に痛々しい歌が多く見られるのだが、ここでは比較的わかりやすいものを引いてきた。一首目、二首目のように、直接的な被災者ではないけれど、自身の苦しみは紛れない。お酒を飲み、薬を飲み、やりきれない日々が続いてゆく。

 

・自制とは齢加えて思うなば何と無為なる時の越し方

 

今日の一首である。この歌は、「思うなば」(思うならば、ということだろう)など、文法的には危ういところがあるのだけれど、「自制」というものが、「何と無為なる時の越し方」という思いには、とても深い人間洞察・批評が内在されている。被災地にあって、一人一人が「自制」するしかないかなしみや怒り、苦しみがあり、「自制」することでやり過ごす「時」があるのだ。それは、結局、「無為」であるという。「自制」という人が人として理性を保つその裏側に、どうしようもない虚無と暗闇を抱えてしまっているのである。

 

なお、前回紹介した、「父母の安否も未だ、夕されば戸籍係はランタン点す」という歌を私は、ご本人が役所を訪れた際の歌だと思って読んでいたのだけれど、今回、『あら汁―心災小景』を読んで、作者がもと行政職員であったことなどから推察すると、「戸籍係」が作者の知人であり、父母の安否が未だ不明ななかで職員の仕事をされていることを詠っている歌なのではないかと思う。歌としても「戸籍係」を主語として読むほうが自然である。私の側の主観的な読みをしてしまったことお詫びします。