木下利玄/我が顔に靑き光を受けながら藪かげ草の肌身をのぞく

木下利玄第一歌集『銀』(1914年)


 

・芽ぐむ木にめぐられて立つ木は何も云はねど何か何かそゝらる
・高き木の新芽(しんめ)見あぐるわが肌の汗ばみいとし夏の秋波(ながしめ)
・我が顔に靑き光を受けながら藪かげ草の肌身をのぞく

 

昨日と同じ一連「肌身」の後半に置かれた歌だ。
いずれも、現実の風景を詠みながら叙景歌というよりもっと感覚的なものを濃密に含んでいる。こういう感じはあまり見たことがない気がする。

 

一首目では、まず、「芽ぐむ」「めぐられて」の韻が、ぐるりの抽象的な空間をつくりだす。芽吹きはじめた木に囲まれて立っている木はまだ芽吹いていないものと思われ、そこにだけ冬の色彩が立っている。その硬質な姿に、「何も云はねど何か何かそゝらる」のだ。それにしても、そそられるときの、「何か何か」という、直接的な表現には切迫感があって、めぐりの木がそそり立ってくるような不思議な歌だ。

 

二首目の「高き木」は同じ木だろうか。高いから、上のほうだけ芽吹いている。下のほうは枝がなくて幹だけなのかもしれない。「秋波」はふつう「しゅうは」と読み、意味は、1、秋の澄みわたった水波、2、美人の涼しい目許(めもと)、3、媚をあらわす目つき。いろめ。ながしめ、であり3の意で「秋波を送る」などと遣われる。この歌でも3の意で「ながしめ」と読ませているが、2の意味も含まれている気がする。傍に女性がいるのであろうか。それとも「夏」をこのように擬人化しているのだろうか。この「夏」は気になるところで、あきらかに春の芽ぐみの歌であるし、周辺の歌には「春」ともある。この少しあとの歌には、「食卓の牡丹の花に見入りつゝ四月二十日の晝とあひみる」という歌があるから、「初夏」という意味合いなのかな。それともこれからくる夏の季節が流し目を送っている、というようなポエジーなのか。「秋波」というところにも季節の感覚があるのであり、女性の肌の汗ばみでなく、「わが肌の汗ばみいとし」と言っているところからは、やはり、来るべき夏という季節と自身との感応と読める気がする。

 

そして、今日の一首。

 

・我が顔に靑き光を受けながら藪かげ草の肌身をのぞく

 

この歌において、抽象度が一気に高まる。
「我が顔に靑き光を受けながら」という大胆な挿入。それは春の繁る草、それも藪かげの草の青さを受けているのである。その草の「肌身」をのぞくという官能性。この孤独に研ぎ澄まされた恍惚感に、うっとりする。
この歌は「肌身」一連の表題歌でもある。

 

『銀』は、大正3年(1914年)、利玄28歳のときに刊行された。前年の大正2年(1913年)には、斎藤茂吉『赤光』や北原白秋『桐の花』が刊行されており、そのさらに前年、明治45年(1912年)には啄木が亡くなり遺歌集『悲しき玩具』が出版されている。ちょうど明治の終わりとともに啄木が去り、大正のはじまりとともに、茂吉、白秋らの歌集が脚光を浴びる。その翌年の『銀』の出版は、印象としていかにも淡い。それは、また木下利玄という人物の淡さのようにも思われる。

 

木下利玄は明治19年(1886年)、岡山に生まれ、五歳のときに、叔父で、足守藩最後の藩主の養嗣子となり、子爵家の家督を継ぐために上京する。学習院中等科三年のとき佐佐木信綱をたずね、竹柏会「心の花」に入会。その後、東京帝国大学国文科へ進むのだが、この学習院時代の友人、武者小路実篤、志賀直哉との親交は厚く、明治43年(1910年)の「白樺派」創刊メンバーにもなっている。同い年には、石川啄木、小泉千樫、吉井勇などの歌人に加え、谷崎潤一郎、萩原朔太郎、藤田嗣治などがいて、明治19年生まれは、まさに文学芸術の黄金世代といえる。それにしても、それぞれの没年があまりにも違うので、これらの人々が同い年という印象をなかなか持ちづらい。利玄自身は、大正14年(1925年)に39歳で亡くなっており、啄木ほど早世ではなく、谷崎たち(小泉千樫は1927年に亡くなっている)のように戦後まで生きていたわけでもないその享年はいかにも淡く、けれども39歳といえば、ちょうど今の私と同じ年齢で、当時にしても決して長生きとは言えないはかなさが、利玄らしいなあとも思う。

 

こうしたことの、ひとつひとつは偶然でもあるけれど、利玄作品の性質ともふしぎに通うような気がしている。