生沼義朗


北川草子/安売りの洋書がパラフィン紙の下で花束みたいな音をたてる

北川草子『シチュー鍋の天使』(沖積舎・2001年)


 

北川草子(きたがわ・そうこ)は、1989(平成元)年から1992(平成4)年まで早稲田短歌会に所属、1994(平成6)年から1999(平成11)年まで「かばん」に作品を発表していた。2000(平成12)年4月10日に、病気のため30歳の若さで亡くなっている。第1歌集でもある『シチュー鍋の天使』は、「かばん」の有志が編んだ遺歌集である。

 

掲出歌は1994年の作品。「安売りの洋書」は、「パラフィン紙」とあるのでパラフィン紙に包まれた古書であろう。読み違えてならないのは、パラフィン紙が花束のような音を立てているのではない。それだと日常の嘱目詠だ。あくまで洋書が音を立てている。ここには世界に対する願望、特に「花束みたいな音」には、華やかな何事かを求めている作中主体の精神的な志向を感じ取ることができる。

 

掲出歌に限らず、全体に字足らずの傾向があるのも北川の歌の特徴である。一般に字足らずの歌は不安定な印象が強くなるが、北川の歌の場合は不安定さや不安感はそれほど感じず、独特の世界観の構築に資している。

 

 

きみのいない朝のしづけさ まなうらに人魚の失くした尾がひるがえる

 

 

巻頭の歌。失恋の歌であることは論を俟たない。「きみのいない朝のしづけさ」という表現から、おそらく同居かそれに近い状況であったことが察せられる。その朝の瞼の裏には、人魚がなくした尾が翻っていた。この人魚は比喩ではなく、北川には見えていたのである。もちろん、アンデルセンの人魚姫の物語を踏まえたものだ。この歌に感傷や内省はあるが、一方でそれを受け止めている勁さも感じられ、失恋の歌にありがちな自分への溺れが少ないことは押さえておきたい。

 

 

たのもしげな名前だからバンドエイド小指にまいてすこし得意

 

 

「バンドエイド」は絆創膏の商品名だが、「たのもしげな名前」という把握に独自性と説得力がある。そのバンドエイドを小指に巻くときに「すこし得意」なのは小指であり、作中主体自身でもあり、またバンドエイドそのものでもある。いずれにせよ、バンドエイドを小指に巻くことで何か防具を得たような、思わず意を強くしている主人公が浮かんでくる。

 

 

風が海を呼びすてにする窓辺にはもうベンジャミンじゃないベンジャミン

 

 

海辺の風が強い現象を、「風が海を呼びすてにする」と描写するところに北川の詩性とその方向性が見て取れる。「ベンジャミン」は観葉植物。育てる環境が変わると葉が落ちる習性があるので、なるべく暖かい場所で育てる必要があるため、窓辺に置かれているのであろう。作中主体はおそらくベンジャミンのすぐ横で風と海の様子を見ている。しかし、いつもと異なる気候であり環境下になってしまったことを、下句の独特の言い回しで表現している。

 

『シチュー鍋の天使』は全体にさびしげな世界観に湛えられている。生きることへの悲しみの現れだが、決して後ろ向きな印象はない。ファンタジーあるいは童話的な要素も強く、さまざまな引用にもそれは現れているが、井辻朱美が展開する世界観とも異なる。モチーフはファンタジー的だが、使い方は比較的日常に根ざしたものが多い。現実世界を半歩横にずらした一種のパラレルワールド的な世界観と言えばよいか。

 

個人的に興味深かったのは、『シチュー鍋の天使』をあらためて読み直してみて、読解できない歌がほとんどなかったことである。本が出たばかりの頃に読んだ際はどの程度読めたか恥ずかしながら覚えていないのだが、いずれにせよ当時としてはかなり先駆的な口語短歌であったと思われる。たらればを言っても仕方ないことだが、北川が歌を続けていたとしたらどのような歌を作っていただろうか。作風から考えてモチーフは変わらないと思うのだが、口語の文体や措辞がどのような変化をもたらしたかを、詮なきこととは承知しつつ夢想したりもしてしまうのである。