木下利玄/黑き虻白き八つ手の花に居て何かなせるを臥しつゝ見やる

木下利玄第一歌集『銀』(1914年)


・普請場に材木を置く遠ひゞき病みて臥す日は悲しかりけり
・庭見れば土にしみ入りしみ入りて冷えゝ雨の降り出でしかな
※二文字の踊り字が出ないのでゝで代用している。
・雨雲のひまより夕陽うすくさし今日も暮れ行く臥しつゝ居れば
・黑き虻白き八つ手の花に居て何かなせるを臥しつゝ見やる

 

風邪などで寝込んでいて、布団の中から音を聞いたり庭の土を見たりしている。近代の歌として決して珍しいものではない。けれどもたとえば、一首目の「材木を置く遠ひゞき」という具体がいいなあと思う。風邪なんかで寝込んでいると外の音が妙に頭にひびいてくる。それが材木を置いている音だとわかるのだ。ごーーんというような丸太を置く音だろうか。ばんばんというような板を置く音だろうか。自分は寝ながらにして、音によって立ち上がってくる広い空間の中に置かれる。ふだん自分が活動しているときとは違う周辺世界の日常が存在感を持つのである。

 

・黑き虻白き八つ手の花に居て何かなせるを臥しつゝ見やる

 

寝ながらにして見える庭の八つ手だろう。その花に虻がとまったり飛んだりしている。花の蜜を吸っているに違いない。八つ手の花は11月から12月ごろにかけて咲く。花の少ない季節でもあり、八つ手の花の蜜に寄る虫は少なくない。けれども、このときの利玄の目にはただ「何かなせる」と映る。白い八つ手の花に黒い虻がとまったり飛んだりしているその営為をただ見つめる目のけだるさ、気力のなさが「何かなせる」という言い方に出ている。同じ「何か」でも、前々回紹介した、

 

・芽ぐむ木にめぐられて立つ木は何も云はねど何か何かそゝらる

 

このときの「何か何か」とは自ずと違う眼差しが「何かなせる」には感じられるのだ。