生沼義朗


山内頌子/猫トイレのシートがにおう もう替える必要のないシートもにおう

山内頌子『シロツメクサを探すだろうに』(角川書店・2019年)


 

山内頌子(やまうち・ようこ)は「塔」「ロクロクの会」所属。『シロツメクサを探すだろうに』は第2歌集で、2005(平成17)年から2016(平成28)年までの423首が収められている。

 

自分の担当する「日々のクオリア」を毎回お読み下さっている方にはお気づきかと思うが、「亡き人を悼む、偲ぶ」と「仕事」というふたつの大きな柱を立てて連載を進めている。これは何か大きな計画があってではなく、単に自分が今もっとも興味がある領域だからに他ならない。

 

『シロツメクサを探すだろうに』は日常を丹念に描写した歌が多く、それはすなわち作者の過ごした時間や人生のトーンと重なるものがある。そうした歌を一首一首読んでゆくなかで、自分の興味のある領域だからと言われてしまえばそれまでなのだが、掲出歌が特に印象に残った。

 

 

肝臓に影もつ猫となりしゆえ雨の日はなお布に埋もるる
働きの過ぎる夫をかなしみて吸い込めるこの猫の日だまり
賢くてかわいく優しいものらから亡くなってゆく時間 しずかだ

 

 

歌集後半の「三和土」という一連の1首目で、そのふたつ前の一連から飼い猫の容態が芳しくない様子が描かれる。出来事を一見淡々と描写しつつ、一首一首に適切な匙加減で抒情が込められている。もちろんかなしくないわけがない。だが感情に溺れることなく抑制の効いた表現に徹することで、かけがえのない家族を失ったかなしみがかえってありありと歌に滲み、だからこそ読者の心を打つ。

 

掲出歌の前の歌までは生きている猫の描写なのだが、掲出歌の「もう替える必要のないシート」という表現ではじめて死が示唆される。「猫トイレのシート」という具体が、状況だけでなく空気感まで表現し得ている。「におう」は排泄物などではなく、そこに猫の体臭のようなものを作者が感じたということだろう。直接自分のかなしみを言っていないところがよりかなしさをかきたて、かつ読者に強い印象を残している。

 

 

傘をさす人もささない人も居て同じ職場という輪に入る
「かりるところ」「かえすところ」の吊り板があんな横揺れ地震 これ、地震
厚着してくる子少なし図書館に秋の絵本は火のいろ多し
電解水含ませ拭いてゆく表紙背表紙そして今日の雨粒
題名はたいてい違う 聞いてのち区切った言葉から検索す

 

 

『シロツメクサを探すだろうに』には仕事の歌も要所要所に見られる。いろいろな仕事を経てきたことが歌集からわかるが、歌集半ばからは職場である図書館を詠んだ歌が出てくる。仕事もまた人生の重要な要素であることをあらためて思う。

 

山内の、事実を短歌形式に切り取る力が確かなのはもちろん、1首目と5首目には、仕事を通じて得た一種の諦念を含んだ思念や機知が見られるし、3首目と4首目には職務の現場性を通した発見と詩性がある。そのバランスが巧みなゆえに、一首一首は読みやすくかつ読者の心の深いところにまで達する力がある。

 

特に地震を詠んだ2首目に注目した。この地震が東日本大震災かは他の歌を読んでも確証は得られなかった(多分そうだとは思うけれど)が、これは作品的事実を揺さぶるものではないので、どちらでもよい。重要なのは、内容の重みもさることながら、下句からまさに山内の声が聞こえてくるようで、実にリアルかつビビッドな歌であることだ。

 

 

うす暗き建物に入り眼(まなこ)から滲みはじめる京都のくらさ
自転車で売り家みにゆく日あたりをいくらで買うていつ死ぬるのか
南側に大きく窓のあることが何十年もこの家を励ます

 

 

もちろん、『シロツメクサを探すだろうに』は仕事や猫の死の歌ばかりではない。なので最後に違う歌を引いた。

 

歌集には〈家〉を詠んだ歌も多い。1首目は出身地である京都の空気を端的に描く。「眼から滲みはじめる」に臨場感と説得力がある。初句の「うす暗き」と結句の「くらさ」で表記を変えているのも芸が細かい。2首目も、「日あたりをいくらで買うて」に重さと一種の身も蓋もなさがあり、結句の「いつ死ぬるのか」が重い実感を持つ。「買うて」の京言葉も効いている。3首目は、南向きの大きな窓に呼応する結句の「励ます」が強い説得力をもたらしている。

 

山内にとって、家族や土地の風土が極めて大きな比重を占めているのはまぎれもない。それを端的に示したかったのであえて家にまつわる歌を引いたが、他の歌においても実は同じことが言える。だからこそ山内の歌には日常を丹念に描写するなかに作者の生が滲み、それぞれの歌を忘れがたいものにしているのだ。