木下利玄/指尖(ゆびさき)の傷の痛みにひゞけつゝ市街(まち)の電車のきしるわびしさ 2

木下利玄第一歌集『銀』(1914年)


 

前回に引き続き、「指の傷」の後半五首を紹介していきたい。

 

「指の傷」

1  わがこゝろかきみだされて胸つまる君が小指の白き繃帶
2  より添へばヨードホルムのうす甘きにほひ皮膚(はだへ)に惱ましく沁む
3  可愛さのわれなやましむ君がせる指の繃帶白くかなしく
4  風觸れず指尖(ゆびさき)熱(あつ)き繃帶を君苦にしつゝ寢ねがてにする
5  なやましき夜の寢ざめに肉體を切に感ずる指の傷かな
6  指尖(ゆびさき)に身うちの熱のあつまりてうみ持つ傷の痛むあけ方
7  繃帶の白きもすこしよごれつゝ憎さもおぼゆ可愛さのはて
8  君泣けばかの繃帶のよごれめのいよゝ我を吸ひやまぬかな
9  強き日にさすパラソルの日陰(かげ)の柄を握れる指の白き繃帶
10   指尖(ゆびさき)の傷の痛みにひゞけつゝ市街(まち)の電車のきしるわびしさ
※7首目「憎」は旧字体、8首目「ゝ」は二文字の踊り字、9首目「強」は旧字体

 

 

・指尖(ゆびさき)に身うちの熱のあつまりてうみ持つ傷の痛むあけ方

 

6首目、ここでも指尖の「熱」が詠われているが、4首目では「風觸れず指尖熱き繃帶を君苦にしつゝ」と、基本的には外部からの目線によって詠われていたものが、この一首では「身うちの熱の集まりて」と、身体の内側から詠われている。まるで、この一夜を経たことで、君の痛みが自らに取り込まれてしまったような。
そしてここではじめて、「うみ持つ」という傷の症状がうかがえる。

 

たとえば、これら5、6首目の歌に「君」という主語を補って読もうとするとどうしても不自然なものが残るのである。

 

・繃帶の白きもすこしよごれつゝ憎さもおぼゆ可愛さのはて ※「憎」は旧字体

 

7首目、改めて君の怪我である。夢と現実の間のような一夜が明けて、朝が来てみると、繃帶の汚れに気がつく。
そしてこの歌も、1、3首目のように指に巻かれた繃帶にそそられている。
白い繃帶は傷と傷の痛みを隠蔽するためのものとして、まさにその白さが重要で、一種の官能性を帯びた緊張を生んでいた。けれども、その白さは次第に汚れてきた。何度も洗っては巻きなおしていたものが色褪せてきたのか、それともずっと巻いていたものが、生活のなかで自然汚れてきたものか。「すこしよごれつゝ」には、時間の経過が感じられる。そして、なんとなく、指の傷から次第に繃帶に滲み出てきた血のようにして、つまり隠蔽されていたものが滲み出すように「憎さもおぼゆ」という心理が浮かびあがる。と同時に、「可愛さのはて」という、ずっと続いてきた緊張が、包帯の白さが「すこし汚れた」ことでやや緩んで、心理的な疲れが吐露されてもいるのだ。

 

・君泣けばかの繃帶のよごれめのいよゝ我を吸ひやまぬかな ※「ゝ」は二文字の踊り字

 

8首目、この歌でも「繃帶」のよごれが詠われる。「白き繃帶」から今度は、汚れのほうが気になり始め、ついには「吸ひやまぬかな」となる。それにしても、「吸ひやまぬかな」は特殊な表現で、視線を吸い寄せているのであり、心を吸い寄せてもいるのであろうが、それを「いよいよ我を吸ひやまぬかな」と、自分自身を吸っていると詠うわけだが、「吸ひやまぬ」って、赤ん坊がお乳を吸っているみたいなイメージしかない。まるで生命でも吸い取られているみたいで、君が泣いたことで、刺激された心がこんなかたちで詠われる。

 

怪我をした指に新しい繃帶が巻かれ、ヨードホルムが匂い、夜には熱を持って疼き、朝には繃帶は汚れ、君が泣く、という情況が少しずつ変化するなかで、常にそこに最大限の心の照準を合わせて感応しようとしている。というより、感応してしまうのだ。

 

・強き日にさすパラソルの日陰(かげ)の柄を握れる指の白き繃帶 ※「強」は旧字体

 

9首目、お医者さんに繃帶を取り換えてもらったのだろう。その帰り道でもあるのか、繃帶はふたたび白くなている。強い日差しとパラソルの日陰という外光のもとに、「指の白き繃帶」は、これまでの室内で見てきたものとは違う清楚な白さを放っている。

 

そして、最後の一首である。

 

・指尖(ゆびさき)の傷の痛みにひゞけつゝ市街(まち)の電車のきしるわびしさ

 

これまでの、密閉された空間のなかで痛みが共有されていくような主語の境界を曖昧にする官能性や神経症的なものとは違い、ここでは、本当に自身の傷のこととして、広い外界が感受されている。
傷を共有してきた濃密な時間が終わりを告げ、本当に自分の傷になった。
たった一人、町に立ち、自分の指にひびく電車のきしりを感じている。

 

「私性」という概念がいつ頃から短歌で語られるようになったのか、考えて見ればよくわからないのだけれど、少なくともこの一連にはそのような意識はまるでなく、相手の傷にとことんまで感応することによって、何かの蓋がいつの間にか開いてしまった感触がある。これを、本来、決して共有されないはずの他者の身体的な痛みに、主語が省かれた短歌という詩形が触手になって届いてしまったというふうに考えてはいけないだろう。人の体験を自分のことのように語ることは、短い詩形では安易になりやすい。それよりも、短歌というよりどちらかといえば詩や小説に近い、一つのモチーフへの異様なアプローチが、しかもそれを意識的に先鋭化する段階ではないナイーブな心動きのままに書きとどめられていることが、最終的に君を離れて誰のものでもない一個の「指尖の傷」という主語を得た、ととりあえずは見ておきたい。

 

この短歌連作には、現代の目から見るからこその注目される面白さが多分にあると思う。