石川啄木/高山(たかやま)のいただきに登り/なにがなしに帽子(ぼうし)をふりて/下(くだ)り来(き)しかな

石川啄木『一握の砂』(1910年)


 

帽子の歌で、私がもう一つ思い出すのが、

 

高山のいただきに登り
なにがなしに帽子をふりて
下り来しかな       ―――石川啄木『一握の砂』

 

啄木らしい身振りに情感があって昔から好きな歌だったのだが、改めて読んでみるといろいろ気づかされることがあった。私はこの歌に、その辺の土手にちょっと登って帽子を振って降りてくる場面を思い描いていた。いま、手元にないのだが、啄木の「ローマ字日記」には、4月の桜の咲く日に、土手にのぼって、いっしょにいた友だちに帽子を変な風にかぶっておどけて歩いてみせた、というような記述があって、私はこの歌をなんとなくそのような場面として読んでいた。けれども「高山のいただき」なのだ。「高山」というのは、実際に高い、登山をするような山を指すのだろう。

 

それにしては、ちょっくら登って降りて来たような軽みがある。
「登り」「ふりて」「下り来し」という動詞が三行のそれぞれに割り当てられているところに、極端な単純化が感じられる。何時間か足を運んでいただきに辿り着き、また降りてゆく道程が三行にきれいに収められたときに起こる、奇妙な圧縮感があるのだ。そして、真ん中の「帽子をふりて」という動作だけが人のシルエットとして印象に残る。

 

もちろん、この歌は喩的にも読める。ある、一瞬、自分は高山のいただきのような場所に来て、帽子を振って、それきり降りてきた、ということであり、だから、ひいひい言って山を登るような実質的な体感はそもそもこの歌の背後にない可能性もある。それはそうなんだけど、そのように読んだ場合にも、「なにがなしに帽子をふりて」っていうこのナンセンスな動作はいかにも啄木らしいと思う。実際にやった感触を齎す。そして、だから、私はこの歌を喩としても読みながら、視覚的なイメージとしてはひょっと土手に登ってそれをやった啄木の姿を思い描いていた。これって大事なことなんじゃないかと思う。喩が喩としてのみ機能するんじゃなくて、喩というある種の普遍への手続きが一方で個にも接続する。つまりこの歌の場合で言えば、啄木という一人の人物に接続するっていうか。それはリアリティとかレトリックの話とも別だと思う。人は、山のいただきに来て、何をするだろうか。下界を見下ろしたり、ヤッホーと叫んだり、おにぎりを食べたり、来し方を思ったり、いろいろあると思う。そのなかで「なにがなしに帽子をふりて」と詠うのは啄木だけなのじゃないかな。そしてこの動作には愛嬌と哀感がある。この動作のところだけは、喩としては回収しきれない人物像を立たせる。するとこの歌は単純な喩の歌ではなくなる。「自分は人生的な高みに一っときのぼって降りて来た」という比喩と感慨は陳腐であるが、その高みで「なにがなしに帽子をふった」という動作は、そうした概念的な構図をはみ出す。はみ出したこの行為がこの歌の中心になる。人間というもののふとした行動の、哀感のほうが立ってくるのだ。だから、高みに登ったそのこと自体は、その辺の土手を登ったのと変わらないほど淡白になり、「なにがなしに帽子をふりて」という人のシルエットだけが、印象づけられるのである。

 

そして、「高山のいただきに登り」という、そのことのほうが結局はナンセンスであるというシニカルな哀感が、啄木にこの動作を選ばせてもいるのだ。

 

釈迢空は、この歌をわりと高く評価していて、こんな発言をしている。

 

私はこれを讀んで、啄木ははじめて完成に達したと考へました。(略)私共の若い頃は、こんな歌は意味のないものと考へられました。この歌は單純であり、その良さを説明してくれと言はれるとちよつと困る。何か良いものがある。歌の内容は、日常の普通にあるものであるが、さう思つてゐるものが、人には重要なものである事が往々にしてあります。昔の文學はさういふ平凡な事は、歌の題材に取らなかつた。しかし啄木は平凡なものを題材に採つて、それをこなして、却て我々の氣持ちに觸れしめたのです。これより人々は、激情的な事を作るより、世の中の平凡なことを歌ふ様になりました。

「石川啄木から出て」

 

若い人の山登りには、別に目的はない。だから登つて、そのまま下つて来るのが当然なのだ。しかし、かういふ風に、啄木が言つてみると、何か相当な問題に触れたやうな気がする。・・・・つまり啄木が、新しい発見をしたのだ、心の底にひそんでゐる微動を捉へることができたのだと、おどろいたものだ。

(※孫引きです。出典わかり次第明記します。)

 

いろいろ面白い文章なのだが、迢空はこの歌を評価しながらも、「この歌の良さを説明してくれと言われるとちよつと困る」と言っている。また、注目されるのは、迢空はこの歌を比喩として読んでいないことである。日常によくあるシチュエーション(山登りが「日常の普通にある」ものか、という疑問はあるが、そういう話じゃないんだろう)をそのまま詠んでいると捉えた上で、けれども、それがこのようにして歌に取り出されたときに、「何か相当な問題に触れたやうな気がする。…心の底にひそんでゐる微動を捉へることができた」というふうに感じているのだ。