花山周子


横山未来子/あたたかき闇に背中をあづくるにふと外されて現(うつつ)へかへる

横山未来子第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』(1998年・短歌研究社)


 

ふしぎな歌だ。一句一句がわかるような気がするし、わからないような気もする。

 

「あたたかき闇」は、ちょうどいまの季節の夜の時間を思うこともできるし、脳や心の感覚としても読める。その闇に「背中をあづける」というのも、まずはわかる気はする。だけど、「ふと外されて」は一体、何によってはずされたのか。夜が朝になるということであれば、「ふと」とは言わないだろう。あるいは、外部から急に声がかかったりしたのかもしれない。それではっとしてわれにかえり、いま自分があたたかい闇に背中をあずけていたことが意識された、ということかもしれない。でも、「あたたかき闇に背中をあづくるに」は、それをすることに最初から自覚があるのだ。だから、「ふと」というのが不思議にひびく。この歌全体が比喩のようでもあり、感覚を忠実に描いているようにも思う。そして、よく見ると、すべてが背後で起きていることがわかる。それが少し怖い。私が書いたような、外部から声がかかる、というような読みは、歌を、一度意味に落として、そこから保管していることになり、本当はこの歌は、あたたかい闇に背中をあずけているとき、その闇がはずされた、ということしか言っていない。闇に背中をあずけているとき正面は闇ではないのか。ふと、背後の闇がはずされたとき、その闇はどこに消えたのか。もちろん、そんなことを厳密に考える必要はないのだけど、この歌自体が、あたたかい闇のような質感を持っていて、読もうとするとその暗闇に手を差し入れるような感覚に陥る。

 

感触が残るのだ。それはこの歌の場合、「外されて」つまり能動的にではなく、外部から何かが起こる、あくまで自分は受け身であるところに、見えない闇の感触が残されるのではないか。

 

視野の端(は)に君みとめつつ振り向けぬわれを真冬の海星と思ふ

 

前回のこの歌でも、「振り向かぬ」ではなく「振り向けぬ」ところに、外界からの圧がかかっている感触があるのだし、

 

時かけて髪を梳(す)く朝ある夢にこばまれたりし記憶のこれり

 

この歌の「こばまれたりし」も、夢のことでありながら、「時かけて髪を梳く」という行為を通すことで、ごわごわとした髪に櫛が通らないときのような手触り、感触がもたらされている。

 

『樹下のひとりの眠りのために』の歌はほぼ相聞歌だけといってよく(登場人物も君と私に限られている)、主体が受動的であり、序詞的な比喩の使用が非常に多くさらに丁寧に文語助動詞が遣われ、歌の印象はどちらかといえば微かで、静かで、美しい。けれども、それだけではなくて歌の内部には外界と生ずる物理的な付加、感触、のようなものが非常に繊細なかたちでひそんでいて、まるで体内に脈打つようにしてひとつの実感をもたらしている気がしている。