花山周子


吉川宏志/旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月出る

吉川宏志第三歌集『海雨』(2005・砂子屋書房)


 

土曜日に子供の運動会で、それから思わぬ事態に襲われて缶詰め状態で二徹して、まだ昨日が運動会のような気持ちでなんとか立ち上がって夕飯を作って食べはじめたとき今日が月曜日だということを思った。そうめんをすすりながら、今日は月曜日だと思った。ごめんなさい。今日はまだ日曜日だと思っていたのです。そのとき、頭に降りてきたのが今日の一首。というか、疲れたときにこの歌が耳の奥に鳴る。今日は、夕方、空が重く赤くなって、この歌はそのときから耳の奥で鳴っていた。

 

旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月出る

 

自分の調子によってこの歌の印象はかなり変わる。元気なときには、口遊むだけで楽しい気持ちになり、「旅」のところを替え歌したりしてご機嫌になる。だけど本当に疲れたときこの歌を思うと、なんだかもう沼の淵に来てしまったような気持になる。

 

発表当初から「なり」の用法などで話題になった歌で「鯖街道」が効いているとか、いないとか、いろいろ言われてきているけれど、考えてみれば私はこの歌をちゃんと鑑賞してみたことはなかった。
この歌は不思議な歌であるし、怖いところがある。
「旅なんて死んでからでも行けるなり」って、そもそも「死」は「死での旅路」なんて言われるように、「行けるなり」もクソも、二度と帰れない旅なのだ。「鯖街道」の語感と「赤い月」は明らかに不穏で、けれども、同時に「鯖街道」は京都から福井方面(魚を運ぶから逆かな)に向かう街道で、京都在住の吉川さんであればきっと身近な道でもあって、ようするに近所の道を歩くことと、「旅」が対比されている面も多少あるだろうか。そして「なり」がやっぱりここで大事になる。一見文語のようでありながら漫画のコロ助がよく遣う「なり」も思い出させるこの断定の「なり」が明らかな不穏さを奇天烈で楽しいものにもしている。

 

だけど、「旅なんて」という言葉はどこから出てきたのだろうか。本当はすごく旅に行きたい。それを死んでからのお預けにする。わざわざそう思わなくても死ぬまでやらずに、できずにしてしまうことはきっと多くて、私はできずに終わることが死だという気もしている。もし死んでからそれができるのだとしたら、すごく悲しい気がするのだ。この歌の「赤い月」は見てはいけないもの「死んでからでも行ける」ということを人に思い知らせるような気が、疲れた今はする。