生沼義朗


中川佐和子/故もなく撃たれしひとりを支えつつ撮れと言いたる声が伝わる

中川佐和子『海に向く椅子』(角川書店・1993年)
※『海に向く椅子』は砂子屋書房の現代短歌文庫80『中川佐和子歌集』に一部収録されている。


 

 

「一九八九年六月三日 中国 天安門事件へ」の詞書が付されている。

 

1989(平成元)年4月、大学生を中心とした胡耀邦・元中国共産党総書記の追悼デモが政府への民主化要求運動に発展し、北京の天安門広場における10万人を超える規模の座り込みとなった。1ヶ月半以上にわたって座り込みが続いて首都機能が麻痺したために、6月4日早朝から人民解放軍が無差別発砲などの武力でデモ隊を鎮圧したのが天安門事件である。死傷者はいまだにはっきりとはされておらず、さらに事件後は中国共産党当局は抗議者や支持者を逮捕し、外国の報道機関を締め出した上で自国の報道機関には事件報道を厳格に統制させるなど、中国内外に多大なる影響をあたえた。〈事件〉という言葉ではとてもこの出来事の重大性や悲惨さを言い果せられるとは思えず、その点でも個人的には違和感があるけれど、とにかく事件からちょうど今年で30年となる。

 

掲出歌は、人民解放軍がデモ隊を武力で鎮圧する前日を、現場で取材している報道機関のクルーを詠むことで描いている。「伝わる」という表現からテレビ画面を通した光景と分かる。銃で撃たれた一人のスタッフを介助しながら、おそらくはディレクターなどの責任者と思われる誰かが、他の誰かに撮り続けろと指示する声が画面から聞こえてきた。冷静な声などではなく、ほとんど怒号であったろうことは想像に難くない。「故もなく」に作者の怒りが滲み、叙述に徹した文体の奥から、民主化に程遠い中国の現状だけでなく、人命とは何か、報道とは何かを問う作者の思念が伝わってくる。

 

この歌の次には中川の出世作かつ初期代表作と言っていい、

 

 

なぜ銃で兵士が人を撃つのかと子が問う何が起こるのか見よ

 

 

が並ぶ。この歌もテレビ画面に向かい合ったところから詠まれている。

 

一般にメディアを通じて何かを詠むのはできるだけ避けた方がいいと言われるのは、自分の実体験を通していないからどうしてもリアリティが弱くなる、既にメディアのバイアスを経たものを詠むことになるので誰が詠んでも同じような詠い口になりやすい、そこに自分自身の視点を入れようとすると勢い社会批評的それも絶対正義に基づくものになってしまうなどの理由による。

 

だが中川の2首は、ことごとくそうした難点を回避している。たしかに景色自体は中川が現場で直に見たものではない。しかし高いリアリティがあるのは、精確な描写に徹しつつ一首に省略が効いているので過不足がないだけでなく、作者の批評や批判を安易に入れていないからである。

 

厳密に言えば、「何が起こるのか見よ」は作者の意見だ。しかし天安門事件を安易に批判する類のものではなく、「なぜ銃で兵士が人を撃つのか」と問うた「子」への答えであり、同時にまずは眼の前の事実を直視して受け入れ、ひいては自らで考えて判断しなければならないという、自分自身への戒めでもある。重要なのはこの下句には客観性と普遍性があり、画面を見て脊髄反射的に出てきた批評や批判とは明確に次元が異なる。だからこそ説得力を持ち、長く秀歌として知られることになったのである。

 

メディアを通して短歌を詠む意味と効果と難しさを考えるたび、自分はいつも中川のこの2首を思い出す。その理由を今回は記してみた。