吉川宏志第八歌集『石蓮花』(2019・書肆侃侃房)
塔の吟行会で長野の霧ケ峰に行ったことがある。ニッコウキスゲが咲いていたから七月頃だったか、高原の草が腰の高さに続いていて見渡す限りの風景に一行が感嘆している横で、吉川さんが、ほら、ほら、と草を指している。何を指しているのか見てもよくわからない。ほら、と言われてもっとよく見ると、直径1ミリあるかないかの虫がいる。吉川さんがそれを手に載せて見せてくれるとブローチのように美しい色のビロードのようになめらかな毛を纏い、ラメのように輝く虫だった。それからはもう、虫メガネを手にしたみたいに小さな虫がどんどん見えてくる。緑色や、赤や、青、オレンジのラメに輝く小さな虫。あれはあの場に吉川さんがいなければ一生見られない世界だったと思う。
琉球の玉虫ならむ掌(て)に置けり斜めに見ると浮き上がる赤
「琉球の玉虫ならむ」だから、本州によくいる玉虫じゃなくて、たぶんアオムネスジタマムシだったのじゃないか。中央のほうが見ようによっては銅色に見えるようだ。玉虫の色彩は構造色といって、表面の微細な突起が光を反射することにより色を見せている。「斜めに見ると浮き上がる赤」には、しげしげと眺める人の目線に舐められて浮き上がる赤がある。「琉球の玉虫ならむ」と思って、掌に置いて、「斜めに見ると浮き上がる赤」というふうに、ぬうっと虫に興味をそそられて、ためつすがめつしながらクローズアップされてゆく虫の姿がある。そして、「斜めに見ると」の「と」のあたりに、生物学者みたいな純朴な好奇心に動かされる人の姿が出ているのだ。
さて、この歌が置かれる連作「高江」は沖縄の基地問題を取材している。
オスプレイがやがて来る森 その風は木々を圧(お)しつけ焦がすと言えり
オスプレイの危険性は大まかには把握しているつもりであるけれど、そのオスプレイの風が「木々を圧しつけ焦がす」ということにはまったく想像が及ばなかった。そのような熱風を沖縄の地に噴きつけて飛ぶということが何よりも武器というもののこの世に存在し難い異物感を物語っている。
金網は海辺に立てり少しだけ基地の中へと指を入れたり
発表当初から注目されていた一首である。「~立てり」「~入れたり」と二つのセンテンスが置かれるシンプルな構造の歌で、そのために歌の中に遮断が起きる。「金網は海辺に立てり」が一度遮断することで「少しだけ」がそこからおそるおそる歌を再開するのだ。広大な基地に対して、せいぜい8センチくらいの「指」がその空間に入るというこのクローズアップの手法は、タマムシを見ているときの目線にも通じるように思う。そして、実際に現地を訪れ確かめようとする、そういう向かい方もまた、地面にしゃがみこむような物事に対する向かい方があり、その現地で、「指を入れたり」という、裸の指を通して緊迫感が探り出されているのだ。