大滝貞一/つゆぞらに首掲げ咲く桔梗(きちかう)の藍(あゐ)は天安門の喪の花として

大滝貞一『北京悲愁抄』(砂子屋書房・1991年)

※『北京悲愁抄』は、『大滝貞一定本十歌集』(沖積舎・2000年)に収載されている。


 

前回に引き続き、天安門事件を詠んだ歌を取り上げる。

 

大滝貞一は大手広告代理店の社員として長期に渉り中国に関する広告業務に従事し、頻繁に中国に渡航している。特に1987(昭和62)年10月から1年間、中国での広告業務の陣頭指揮を執るため北京に単身赴任していた。そして帰任後の1989(平成元)年6月4日に、天安門事件が起こった。事件の説明は前回行っているので省略させていただく。

 

歌人としては大学在学中に「大学歌人会」に参加し、「花實」を経て「古今」に入会、福田栄一に師事した。「古今」の編集に長く携わり、1985(昭和60)年に「雲珠」を創刊して主宰となった。

 

『北京悲愁抄』は第7歌集で、1986(昭和61)年12月から1990(平成2)年8月までの作品556首が収載されている。集題は、「中国に広告業務が開放されて十年余。それ以前の準備段階当初から訪問折衝を重ねてきた私にとっては、今回の「天安門事件」はまさに驚天動地の痛恨事となった。一歩一歩重ねてきた友好交流活動の信頼性が、一挙に崩れてしまったのである。また一からやり直さなければならない。このたびの歌集名を敢えて『北京悲愁抄』としたのは、中国の首都に対する私の深い悲しみと愁いに因(よ)る」からという。掲出歌はその中ほどにある「喪の花」一連17首の最終首。「喪の花」一連は、

 

 

戒厳軍の戦車を焼くと火はあがり修羅場果てなく画面に迅(はや)し
泣きながら歴史の暁(あけ)を叫びたる乙女らの声は鋭く跡切れ
昨年(こぞ)も棲み親しみにしを死の広場といふさへ暗し血の色の旗

学生らの抗議行進を見し出張の日からいくばくもなく

水を瓜子児(クワヅル)を学生デモに与へたる民衆の白き手忘るるなけむ
戦場と化したる街をなほも往(ゆ)く自転車の白き列かなしけれ
緊迫せる日本人撤退を連絡しそののち掛からぬ電話に苛立つ

 

 

といった歌から成り立っている。テレビで見た天安門事件の映像を描写するところから一連を詠い起こし、つい最近まで住んでいた中国の現状に思いを馳せ、さらに現地に駐在するスタッフと連絡を取ったり気遣ったりする仕事の歌へと展開し、中国の将来を案じるところで一連が締めくくられる。見聞きしたものを丁寧に詠みながら、一連全体では中国を知る人から天安門事件を捉えたドキュメンタリーの側面も持つ。

 

掲出歌に眼を移すと、桔梗の藍色の花を天安門事件の「喪の花」に見立てたところが印象的で、その色彩が読者に深い悲しみを手渡す。歌に詠まれた桔梗は日本に咲いているものだろうが、桔梗は日本だけでなく中国や朝鮮半島にも分布する。当然作者はそのことを踏まえており、今頃中国でも桔梗の花が咲きはじめているだろうことに思いを馳せている。桔梗は秋の花のイメージが強いが、実際には6月から9月頃までと開花時期は長いので、天安門事件の「喪の花」として象徴させるには時期的にも似合う。このあたりの道具立ての選択やイメージの援用は達者である。もともと大滝の歌は自然特に草花を和歌的に詠み上げ、その際に時間と空間をスケール大きく捉える特徴があるが、その特徴と技倆が如何なく発揮されている。

 

梅雨空をあえて「つゆぞら」とひらがなに展いたのも芸が細かく、それを初句に置く効果も計算されたものだ。「首掲げ咲く」も一見擬人法が煩く感じられるかもしれないが、「喪の花」である桔梗をまさに弔旗のように心に掲げている作者の気持ちが率直に現れた表現と言える。

 

前回は中川佐和子の歌を通して、メディアで見聞きした情報を基に短歌を詠む意味と効果に触れた。中川も大滝も天安門事件をメディアを通じて知った点では共通するが、もっとも大きな違いは大滝の歌には中国に実際住んでいた体験と、体験に基づく抒情が歌に含まれていることだ。

 

どちらがよりよい、あるいはすぐれているというのではない。中川の歌と大滝の歌では役割が異なる。体験には体験でしか得られないリアリティがあるのは間違いないが、まだまだ短歌の中のわれ=作者自身という読みのコードが根強い短歌では、体験によるリアリティを至上とする空気があることは否定できない。作品評価の際に安易に体験によるリアリティの有無を物差しにするのは避けなければならない。

 

自分が掲出歌を高く評価するのは、天安門事件に対する怒りや悲しみと、桔梗を「喪の花」する象徴性とが一首の中で見事に結びついているからに他ならない。