前川佐重郎/夏草をちぎりて撒(ま)けば空くらし静脈のごとき茎そそりたつ

前川佐重郎第一歌集『彗星紀』(1997年・ながらみ書房)


 

『彗星紀』には植物の歌が多いが植物の詠い方も特徴的だと思う。

 

ユキノシタ、羊歯のたぐひも怖ろしき春をはるころ眼鏡は透(す)きて

 

ユキノシタは、地面に蔓延る草で、直径3、4センチくらいの円形の暗緑色の葉には白い葉脈が四方に広がる。葉の裏は赤い。五月ごろには下から茎だけがすうーと伸びてきて、先っぽに白い花をつける。地味な草で私の曾祖母の家の木戸の脇にたくさん生えていた。白い葉脈がとにかく特徴的で、子供の頃には、その葉脈を取り出そうと年中ちぎっていた。羊歯はいわずと知れた羊歯であるが、どちらの草にも共通するのは、地面の下の方に蔓延り、ちょっと太古の植物っぽいというか(羊歯は実際そうだけど)妙に陰気で、葉の面よりは線が印象的な草であることではないだろうか。

 

「春をはるころ」だから、ユキノシタの花のことを言っている可能性もあるのだけれど、「たぐひも怖ろしき」からは私は葉のほうを連想するのである。春がおわるころの得体の知れない生態が地面に繁茂する感じ。生物は面で見るよりも線で見るとき、構造としてのミクロの部分が露出してしまっているような気色悪さがある。「眼鏡は透きて」というのは一見感覚的な表現のように見えるけれど、眼鏡をかけることでよく見えてしまう、このよく見える感じが「透きて」になっている気がする。それを「春をはるころ」にまるで眼鏡が透くみたいに言われるとき、季節を通して何かがズームアップさせていくみたいだ。面白い歌だなあと思う。写生ともファジーとも違う、独自の、そして明瞭な「視覚」が詠われていると思う。どこにも葉脈とか書かれていないんだけども。

 

夏草をちぎりて撒(ま)けば空くらし静脈のごとき茎そそりたつ

 

「夏草」からまず連想されるのはあの草色ではないだろうか。けれども、この歌はその草色が脱色されてゆく。それは、「ちぎりて撒けば」のあとに来る「空くらし」のためでもある。あるいは、そのあとに来る、「静脈のごとき」のせいかもしれない。まるで血の気が失せていくようにして、最後にくるのが「茎そそりたつ」なのだ。そして、私にはやはりこの歌が黒い線だけで描かれた銅版画の画面のように見える。

 

草をちぎって撒くとき濃く臭うはずの草いきれがしない。空が暗くなり、草を撒いたあとの草原には「静脈のごとき茎そそりたつ」という光景が残される。まるで、葉も花もなくなって、ちぎって撒いた私もいなくなって、茎だけがそそりたっている。それも静脈のような茎なのだ。風景が硬質な線へと置き換えられている。