筑波杏明/われは一人の死の意味にながく苦しまむ六月十五日の警官として

筑波杏明『海と手錠』(短歌新聞社・1961年)


 

 

筑波杏明(つくば・きょうめい)は1947(昭和22)年に警視庁警察官を拝命し、掲出歌が詠まれたときは機動隊の隊長を務めていた。歌人としては1948(昭和23)年に「まひる野」に入会し、窪田章一郎に師事した。ちなみに筑波杏明は筆名である。

 

掲出歌の「六月十五日」は1960(昭和35)年6月15日である。この日のデモで全学連主流派が国会に突入して警官隊と衝突した際に、東京大学の女子学生でブントの活動家でもあった樺美智子が死亡した日であり、「一人の死」は樺美智子の死を意味する。筑波は機動隊の隊長として安保闘争のデモ隊を鎮圧する側にいた。

 

警察官は公安職であるから治安の維持が職務だ。国会にデモ隊が突入してこようとする状況を阻止するのは当然である。樺の死因について、警察側は樺が転倒した際にデモ隊によって圧死したものとし、デモ隊側は機動隊の暴行によるものと当時から主張は分かれている。原因はともかく、筑波は樺の死の「意味」に苦しむ。警察という国家権力が、治安維持の名の下に、結果的にとはいえ一人の人間の命を奪ったゆえにである。単に死者への申し訳なさだけではなく、国家とは何か、権力とは何か、若者が学生運動に走る意味とはなど、さまざまな問いに及んだことは想像に難くない。

 

一首を「われは」と詠い起こしている点にまず注目したい。初句でいきなり「われは」と入るのは歌全体が結論めく原因になったり、大仰になるのであまり成功しにくいが、この歌では警察組織をいったん離れて自らの思考と懊悩に入る一人の人物像が立ち上がってくる。また、二句以下の措辞とも無理なく調和していて、一首全体はあえて悪く言えばスローガン的な文体なのだが、かえって「六月十五日の警官」である自分自身に言い聞かせる意味内容と相俟って読者に深い感動と説得力をもたらしている。

 

「苦しまむ」の助動詞「む」は主に推量、意志、適当・勧誘、婉曲・仮定の4つの意味があるが、主語が一人称の場合は意志、二人称であれば適当・勧誘、三人称なら推量と一般に判断される。したがってこの歌の場合は意志の「む」、つまり長く苦しむつもりだ、となる。もちろんこの歌の表現自体に客観的な視座を含んでいるので、主語は三人称的な役割も兼ねている。よってこの「む」には推量、すなわち長く苦しむだろうという意味も帯びてくる。

 

この煩悶は人として自然なものだろう。しかし警察組織の中ではそうではなかったようで、掲出歌および筑波の第1歌集『海と手錠』は警察内部で問題となり、歌集の刊行された1961(昭和36)年の12月に筑波は警視庁を依願退職している。

 

冒頭に挙げた樺の死はもう60年近く前の話である。樺の死は、1937(昭和12)年生まれの樺の同世代者はもちろん、70年安保の際の学生運動に参加したもう少し下の、いわゆる団塊の世代にも大きな影響をあたえた。

 

掲出歌に直接関係ない話だが、もう20年近く前に参加した超結社のある歌会で、結句が「六月さむし」という歌に対しある参加者から「これは樺美智子の死を悼んだ歌」との読みが出された。作者名発表後に作者に聞いたところ、まったくそうした意図はなかったそうである。ちなみに、作者は自分よりは年上だが学生運動に携わった世代ではない女性で、読みを施した参加者は団塊の世代の男性だった。現在ではそうした読みの土壌は相当薄れただろうが、当時はまだ今よりは根強かった。それくらい、学生運動がもたらした多くの事件は社会的な影響力が大きかったのだ。その意味でも樺の死は「ながく」影響したのである。