上田康彦/携帯と鍵を忘れて妻を待つ和金のような鰯雲見つつ

上田康彦「短歌」2019年1月号「角川歌壇」


更新が毎回遅くなっていてごめんなさい。
書きたい歌、取り上げたい歌はたくさんあるのですが、なかかな簡単には書けず、崖っぷちです。そういうわけで、今回は、自分が以前書いた鑑賞の読み違いについて書かせてください。

 

携帯と鍵を忘れて妻を待つ和金のような鰯雲見つつ

 

これは、今年の角川歌壇1月号の特選に選んだ歌で、今でもお気に入りの一首なのですが、そのときの選評で、私は以下のように書いたのですね。

 

夫婦の在り様が鮮明にある。「忘れた妻」でなく「忘れて」なので、これは夫婦二人の忘れ物であり、そそくさと妻が取りに戻って、夫は茫洋と待っている。「和金」と「鰯」は違う魚なので気になる人もあろうが、和金は色を指していて、空の色を金魚みたいだ、と思っているこの人の茫洋にとても惹かれた。

 

この私の大いなる勘違い、わかるかなあ。私はこの歌を、夫婦で出かけるときのものだと読んだ。夫婦で出がけに、携帯と鍵を忘れていることに思い当たり、妻のほうが取りに戻って、夫は待っている。老齢の夫婦には確かにこういう場面ってよくあって、そういう夫婦の機微が出ているのがおもしろいと思った。だけど、みなさんこれ読んで、きっと、え??ってなると思う。私の読みはあり得ないほど迂回した読みで、なんでこんなふうに思い込んでしまったのか自分でも不思議なのですが、私はとにかくこの歌がお気に入りだったので家に遊びに来た友だちにわざわざ「短歌」を取り出して読ませ、そのとき友だちが「ん??」って言ってくれるまで気づかなかった。

 

これって、夕方帰ってきた夫が鍵を忘れてしまったから家に入れず、携帯もないから連絡もできず、仕方なくドアの前で妻が帰ってくるのを待っているっていう場面なんですよね。それで手持無沙汰で空を見ることになるんだけど、その空が「和金のような鰯雲」という、ちょっと圧倒的な美しさで「和金のような鰯雲見つつ」という、悠々とした時が流れている。しかも、空の茜色を金魚の色みたいだなあ、と思って見ているこの人物が何より圧倒的に美しいと思う。

 

ともかくも、携帯も鍵も忘れてるんだから、あっちゃあ、となるのがふつうなんだけども、「携帯と鍵を忘れて妻を待つ」って妙に尊大というか、堂々として、この悠然ぶりが、せせこましく生きている私にとっては、浄化されるというか、本当にいい歌だなあと思うのです。