生沼義朗


本川克幸/陸岸のかたちを指でなぞるとき仄あたたかきレーダー画面

本川克幸『羅針盤』(砂子屋書房・2017年)


 

4月16日の御供平佶の項で、「警察官や海上保安官、刑務官などのいわゆる公安職の歌はあまり見かけない」と書いた。前回の筑波杏明に引き続き、掲出歌の作者本川克幸はその数少ない公安職で、北海道の根室で海上保安庁の巡視船に乗務していた海上保安官である。

 

本川は2012(平成24)年に「未来」に入会し、佐伯裕子選歌欄に所属した。2016(平成28)年の3月に51歳の若さで亡くなっている。第1歌集であり遺歌集でもある『羅針盤』は、約4年分の作品352首が編年順に収められている。

 

掲出歌の「陸岸」は詩歌ではあまり見ない語彙ではなかろうか。海洋の専門用語に詳しくないので推測の域を出ないが、おそらく海洋に携わる人にはポピュラーな語の気がする。意味は陸の岸だろうが、海からの視点で使われる言葉だろう。日常と質やベクトルが異なるかつその現場で実際に使われている言葉を使うのも、リアリティの確保には重要である。

 

操舵室のレーダー画面を指でなぞるのも、「仄あたたかき」という感触を得ている以上、意識的に行っているのだろう。行為の目的は指差し確認的なものと解釈したが、非常に説得力のあるリアルがある。「仄あたたかき」も「熱き」などとしないところに冷静かつ客観的な把握と抒情がバランスよくせめぎ合っている。

 

 

本当は誰かが縋っていた筈の救命浮環を拾い上げたり

 

 

海難救助も海上保安庁の重要な職務のひとつだ。救命用の浮輪が海に浮いている。「本当は」とあるので、人命を救助するはずの浮輪が機能しなかったことを示している。浮輪を巡視船から回収しながら、無念の思いを噛みしめる。

 

 

会いたさを持て余したる冬の朝 海、空、太陽、他に何もない

 

 

この歌の一首前に〈海鳴りにひれ伏しながら眠る夜に回り続けている羅針盤〉とあるので、船上で一晩を明かしたことがわかる。「会いた」い相手は家族と読んだが、ここは読者がおのおの想像すればよいだろう。「持て余したる」に相応の時間の経過と行き場のない感情が漂う。下句は一転してスケールの大きな現実の描写に移るが、あえて放り出すような口調での語りが効いている。「冬の朝」という場面も重要で、自然の厳しさおよび人間の小ささや孤独などの内省的な感情が否応なく高まってくる。

 

 

救えない命を乗せて走る船 分かっているが陸地はとおい

 

 

「救えなかった命」ではなく「救えない命」とあるのでまだ亡くなってはいない。だが、「救えない」と言い切れるくらい絶望的な状況だということだ。下句の一種むき出しの表現が重くのしかかってくる。

 

 

こわれても修理をすればよい船とこわれたままで働く心

 

 

仕事をしてゆくなかで心が壊れてしまうことはどの職業でもあることだが、人命救助に直接関わる仕事では心にかかる負担は生半可なものではないだろう。それでも働かなければならない状況をあえて即物的かつ散文的に語っていて、対句が効いている。「こわれても修理をすればよい船」という言い方に一種の羨望と諦観が宿る。

 

今までに公安職の歌として御供平佶筑波杏明の歌を挙げた。作品の印象の大きな違いは、職務における自然と人命の比重だ。だからより尊いと言いたいのではない。当たり前のことだが同じ公安職でも職務が異なればその意味も性格も異なるから、どの現場の歌も貴重かつ意味がある。

 

一方で短歌だけではないだろうが、歌の意味内容が自者他者を問わず人の命やその意味に接するとき、非常に大きな感動や説得力をもたらすことがある。挽歌が人の心に残りやすいのはまさにその原理に基づくためで、大きくいえば相聞歌にもその原理が含まれている。

 

本川の歌が自分にとって強く印象に残ったのは、めずらしい現場の歌だからだけではなく、そうした人の命の明滅に接した際の内省的な思索に心打たれるからなのである。