佐藤通雅/期日前投票初日間仕切りに首を入るるは馬のごとしも

佐藤通雅第11歌集『連灯』(2017年・短歌研究社)


 

投票所に設置されたあの間仕切りは、確かにこう詠われてみると水場や餌箱に首を突っ込む馬の感覚を齎すかもしれない。そのことが、なんともいえず滑稽なんだけども、一旦それは置いておいて、先に、何年かに数度経験する投票所の現場を思い出してみたい。

 

選挙という、民主主義を行使する主体的な場であるはずの顔一つ分の間仕切りに首を入れ、奥に貼られた候補者や政党の名前と向かい合うとき私はいつも自分が書き損じしそうな異様な緊張を強いられる。管理され誰かに見張られているようなあの独特の空間は何かの疑似体験のようでもあるが、まずは選挙とう無機質な制度が硬い名詞の羅列によって「期日前投票初日間仕切り」という空間として取り出されているところにこの歌の面白さがあると思う。そして、そういう空間に対して「馬のごとしも」という比喩は対照的であるはずだ。漢字の多い上句に対し下句は視覚的にも対照的である。あるはずなのだけれど、歌の流れは寧ろ上句の段階からおもむろにこの比喩を導き出しているように思える。

 

ふつう、「期日前投票の初日の間仕切りに」というふうに助詞を補ったほうがゆったりとしたリズムになるのだが、この歌の場合は逆である。「期日前投票初日間仕切りに」は助詞がないだけでなく、字余りもしていないのに、非常にゆっくりとした速度が生まれているのだ。全てが漢字であるために、それを音に解凍していく過程がおもむろな速度となって、「間仕切りに」という平仮名表記に下りてゆく。そして、「首を入るるは」と頭をもたげるようにして「馬のごとしも」という比喩が導き出される。対照的であるはずのものが韻律によって予め用意されてしまうこの感じが、意味内容以上に予感のなかに自分が没入していくような体感としてのリアルを生んでいる。

 

そしてそのような体感を通るからこそ、「馬のごとしも」という比喩が、「千と千尋の神隠し」で主人公の両親が豚になっていまうみたいに、間仕切りに首を突っ込んだまま本当に馬になってしまったようなシュールな世界が立ち上がっている。

 

十円玉で用をすませてボックスを出るとき人間に戻つたやうな

 

これは、ちょうど逆バージョンの歌である。
電話ボックスだろう。町の片隅に立てられた硝子の箱の中で、十円玉を入れて電話をしている自分というものは考えてみれば奇妙なものである。そこから出てきて「人間に戻つたやうな」と思うとき、さっきまでの中にいた自分は何者だったのだろうか。もちろん、「人間に戻つたやうな」はあくまでも感覚的な物言いだから、これをひっくり返して、「中にいた自分が人間外のものであった気がした」とまでは読めない。出てきたときに、「人間に戻る」という感覚的な体験が訪れたのだ。だけども、「人間に戻つたやうな」と言われるとき、その背後にはやはりシュールな世界が立ち上がってしまっていることは確かである。

 

『連灯』という歌集には、このような、私たちが日常として見ているものの破れ目を押し広げるようにして、違うものの見え方にくぐり出るような、文体が齎す、体験的な思考があるように思う。

 

次回、そのあたりをもう少し丁寧に書ければと思う。