生沼義朗


橋場悦子/〈当職〉といふ主語による通知書に封をす切手の裏は舐めない

橋場悦子「パプリカ」(「朔日」2018年12月号)


 

少し前の号になるが、「朔日」300号記念号掲載の、20名による特別作品各30首一連のなかで、この歌が強く印象に残った。

 

「当職」は「とうしょく」と読み、弁護士、税理士、弁理士、司法書士などのいわゆる士業(さむらいぎょう)の資格者が、業務の際に用いる一人称である。この単語を短歌では初めて見た。「主語」とあるので、これはもちろん作者自身のことである。具体的にどのような職種業種に従事しているかは一連を読んでもはっきりわからないように描かれているが、これは相当意図的なものだろう。「通知書」は内容証明郵便の類いを連想させ、業務の緊迫感が率直に立ち上がってくる。

 

「当職」という語にはこの職業・職務という意味が自動的に付帯するため、あくまで私人としての〈私〉を離れた職務上の行為であるニュアンスもおのずと含まれる。また「主語」もかなり強く硬い印象を読者にあたえるが、自分自身や職務に対する問いがこの語を選ばせていることは想像に難くない。

 

四句途中の「封をす」でいったん意味は軽く切れ、続く「切手の裏は舐めない」とは意味内容上の密接な因果関係があるわけではないが、不即不離の間合いがある。切手の裏を舐めない理由は、私信であれば切手の裏を舐めて貼ることもあるけれど、職務として出すパブリックな「通知書」だから、切手の裏を舐めるようなことは私はしない、という一種の職務上の矜恃と読んだ。

 

橋場が師事する外塚喬は、師である木俣修に「君だけの世界で歌えるものを歌え」とよく言われ、仕事の歌を積極的に作ってきたという。

 

 

姓名の名(めい)も記載すわたくしが呼ぶことのなきその名前まで
墓場まで持つていけずにたいていのことは喋るか忘れるだらう
写真とは常に昔を写すもの鏡ほどにはおそろしくない
裏の裏なるは表よCMの続きは見ずにはやばやと寝る
話題乏しき会食なれど取り分けて皿を配れば謀りごとめく
海底のやうな明るさ ひた走る電車に天気雨降り注ぐ

 

 

橋場の一連の他の歌を読むと、仕事だけでなくさまざまな題材に拠っているが、共通するのは現在を生きる人間の姿をできるだけいきいきと描こうとしている点である。木俣も外塚もヒューマニズムを大事にしている歌人という印象が強いが、橋場の歌も事柄を通して人間の生きている姿と感情を描こうとしている。橋場が師の衣鉢を継ぎ、どのような人間描写を短歌形式に定着させうるかを今後も注目したい。