花山周子


佐藤通雅/氷山の一角のその一角が光放つ今朝の新聞欄に

佐藤通雅第11歌集『連灯』(2017年・短歌研究社)


ふつう氷山の一角というと、悪いことを指す。だからたとえば先日、高校生が踏切でご老人を救ったというニュースがあったけれど、これを「こうした高校生の行為は氷山の一角だ」とは言わないわけで、けれどもこの歌ではその氷山の一角が「光放つ」と詠われているのだ。まるで輝かしいことのようである。そして、だからと言って、この新聞欄に見えた「氷山の一角」が決して吉報ではないところにこの歌の怖さがあると思っている。

 

「氷山の一角のその一角が」の「の」で細かく区切られたリフレインには動悸がするような、息の短さがあって、鋭く切迫している。そこから「光放つ今朝の」の9音は単純な字余りではなく、非常に複雑な韻律を持つ。「光を放つ」というふうであれば、寧ろ落ち着くんだけども、「光放つ」とつづまっていて胸を圧迫するのだ。字余りなのに窮屈な韻律。そして、「新聞記事に」とは言わず「新聞欄に」となる。「新聞欄」って漠然とした雑なくらいの言い方なのだが、それによって記事の内容はさらに抽象度を増し、新聞の灰色の紙面の文字の羅列が一つの面として見えてくる。そういう面を突き破るようにしてこの「氷山の一角」があるのだ。

 

だから、この歌は、常套句であるところの「氷山の一角」をそもそものイメージに還元している。海面に突き出た氷山の一角は確かに白く光っているだろう。そしてその海面下にあるものの人知を超えた大きさが見えてくる。上句からの切迫した予感のなかから新聞欄という日常を破って、巨大な何かが現れつつあるのだ。

 

昼となく夜となく生れて切れ目なし金の延べ棒のやうな耳鳴り

 

この歌の比喩も特徴的であると思う。
「耳鳴り」という自身の内側で起きている感覚的な現象が、「昼となく夜となく」という時間を介在させることによって、高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」のごとくに、自身を貫く実体的なもののようにして詠われている。そして、ここでも「金の延べ棒」が、決してよきものではないのだ。

 

二つの歌に共通するのは、その比喩がシュールなビジョンを立ち上げることによって、たとえば目の前の見慣れた日常が転覆させられつつあることだ。そして、何より、日常そのものが「氷山の一角」であるという鋭い予感がこの転覆の予感を齎しているのである。

 

では、その予感はどこから来ているのか。そのあたりのことを来週に持ち越します。