生沼義朗


木俣修/行春(ゆくはる)をかなしみあへず若きらは黒き帽子を空に投げあぐ

木俣修『みちのく』(文化書院・1947年)
※表記は『木俣修全歌集』(明治書院・1985年)に拠る


 

掲出歌が収められている『みちのく』は1947(昭和22)年刊行だが、『市路の果』と『高志』の間の期間、具体的には1931(昭和6)年春から1934(昭和9)年春までの作品382首が収められている。

 

1931(昭和6)年は木俣が東京高等師範学校を卒業し、仙台にある宮城県師範学校の教諭として赴任した年で、1934(昭和9)年4月には旧制富山高校に転任している。つまり、『みちのく』は木俣の仙台在住時の作品から成り立っており、掲出歌の背景として押さえておく必要がある。

 

掲出歌は師範学校の卒業式の様子を描く。「行春」は暮れてゆく春あるいは過ぎゆく春の意味で、卒業式の雰囲気によく合った語の選択だ。そして、悲しみに耐えられない若い感情を爆発させるかのように黒い学帽を一斉に空に向かって投げるのはもちろん男子学生である。ちなみに当時の宮城県師範学校は男子校だった。師範学校は初等・中等学校の教員養成機関なので、多くは卒業後教師として旅立ってゆく。

 

このとき木俣自身もまだ25、6歳。構図としては一歩引いたところから眺めているように見えながら、同じ教師として見守りつつ内心で激励している気持ちがよく伝わってくる。適度な感傷とロマンチシズムがありがなら決して溺れないところもポイントで、春の青空と黒い学帽という色彩もあざやかだ。北国の待ち望まれた春ゆえのみずみずしく弾んだ感覚にあふれた、木俣の初期代表作のひとつである。

 

今日4月4日は木俣修の命日で、門下の人達による木俣修忌が2017(平成29)年まで菩提寺である東京・世田谷の豪徳寺で行われていた。自分も一度だけ、最後の木俣修忌に参加したことがある。いつも平日開催なので普通なら無理だが、その日はたまたま休みが取れたのと、「形成」系結社の「朔日」会員である妻の代理としてであった。出席者の多くが木俣の謦咳に直に接した方で、非常にあたたかみのある会だった。豪徳寺での墓参の後、三軒茶屋の公民館の一室に会場を移し、講師の木俣に関する講演と参加者全員が木俣に関するスピーチを行った。参加者の話を聞きながら、木俣の業績を伝えてゆきたいとする強い意思を感じた。

 

1月8日の上田三四二の項目で「時間の経過とともに死者が物凄いスピードで追いやられてしまう印象は拭えない。特に上田三四二はあまり大きな結社に属さず、しかも50歳代以降は無所属であったためいわゆる門人や弟子筋も少なく、語れる人があまりいないという事情もあるだろう。だがそれでも、歿してしばらく経ってしまった歌人の人物像や作品が語られなくなってしまうのは死者の責任ではない。残されたものの責任である」と述べた。

 

木俣は1953(昭和28)年に結社「形成」を創刊し、主宰となった。当時を代表する大結社のひとつだっただけあり弟子も多く、研究誌「木俣修研究」も2008(平成20)年から2017(平成29)年までの10年間、年2回の頻度で刊行された。さらには、今年3月にその成果をまとめた『木俣修読本』(木俣修研究会)も刊行されている。歌人個人の研究誌が出されているのは若山牧水、山崎方代、佐佐木信綱など数えるほどしかいない。木俣が歿したのは1983(昭和58)年だが、亡くなって35年以上経っても今でもこうして顕彰されている歌人は決して多くはない。その点で大変恵まれた歌人と言える。そしてこれも間違いなく、歌人の業績のひとつなのである。