田中ましろ/生きるとは硬貨を抱いていつまでも着かないバスを待つ人のごと

田中ましろ『燈心草を香らせて』(著者発行・2019年)


 

田中ましろの写真歌集『燈心草を香らせて』は、文字通り短歌作品に写真を組み合わせた一冊である。瀬戸内海で撮影したという、落ち着いた味わいのある色調の、やや粒子の粗い写真が印象的だ。集題は歌集掉尾の

 

 

指先に燈心草を香らせて朝餉をつくる僕らの日々よ

 

 

の歌に拠る。「燈心草」は畳表にも使われる藺草である。一冊の主題は、地方に移住した若い夫婦の生活だ。あとがきで田中は「都会の喧噪を離れ、地方へ引っ越す若者が増えているというニュースを見たときから心の中でずっと詠んでみたいと思っていた「地方移住」をテーマにした作品。不慣れな土地での新しい暮らしへの葛藤や不安や希望の中で未来を見つけていく姿を描けたら」と述べる。

 

掲出歌は二句以下の喩が初句の「生きる」を形容する構造になっている。「硬貨を抱いて」や「いつまでも着かないバス」などの措辞は多少のネガティブさをも含みつつ、落ち着いた抒情を感じさせ、さわやかかつくっきりとした印象を残す。

 

写真と短歌のコラボレート自体は今までにもいくつかの先例があり、例えば仙波龍英の歌に荒木経惟の写真を組み合わせた歌集『墓地裏の花屋』や、早坂類の歌に入交佐妃の写真を組み合わせた歌集『ヘブンリー・ブルー』などが思い浮かぶ。

 

『ヘブンリー・ブルー』のあとがきに「歌と写真の組みあわせの作業」とあるので、どちらかが先に作られた上でどちらかがその作品に応じて後から作られたものではなく、既に存在する作品同士が組み合わされることで作品世界のぶつかり合いから起こる相乗効果と協働を目指したものだろう。

 

『墓地裏の花屋』や『ヘブンリー・ブルー』は短歌の作者と写真の作者が異なるが、『燈心草を香らせて』は同一人物が両方とも作成している。つまり短歌と写真がぶつかり合うよりも連動している点もこの歌集の大きな特徴だ。また、先述の2冊は風景などのいわゆる静物写真がほとんどなのに対し、『燈心草を香らせて』は遊上(ゆかみ)なばなという女優を起用した人物写真が主体になっていることも重要な違いとして押さえておきたい。

 

若い夫婦の地方移住というテーマ自体は、田中の第一歌集『かたすみさがし』の作品世界とは異なるものだろう。『燈心草を香らせて』一冊がそれまでの作品世界から離れた一種のコンセプティブ・ポエムと捉えれば合点がゆく。今までに挙げた特徴を、近代短歌以降の短歌が培ってきた作者=作中主体という私性のテーゼから逃れるための田中の仕組みとすれば、よく考えられているのではないかと思う。

 

短歌にとって私性は、切っても切り離せない特徴である。近代以降、主にアララギが構築した価値観は確かに功罪両面があったかもしれない。しかし、作者の体験してきたことを忠実に継続して作品化すればかけがえのない一つの作品世界を構築し得るモデルを産みだした点では、間違いなく大きな仕事だった。別にその価値観に基づかない作者が多数出てくることをまったく否定しないが、一方でアララギ的な価値観に拠る作品および作者も否定されるべきではない。もしそれらの作品や作者が低く見られるようなことがあれば、それは過去の蓄積の軽視と言わざるを得ない。

 

話がやや脱線したが、私性の観点から見れば『燈心草を香らせて』はこの一冊のみで完結している歌集である。一方で、田中ましろの歌人としての仕事を考えたとき、『燈心草を香らせて』をどう位置づけるか。なかなか難しい問題である。